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  俳句ギャラリー    

 

  第22回 岡本綺堂

 

 

 

      

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丹波路や馬士馬の沓栗のいが

 

 

岡本綺堂(1872〜1939)は東京に生まれ、明治23年から大正2年まで「東京日日新聞」の記者として劇評を担当、自身も市川左団次のために70余編の脚本を書いた。

特に「修善寺物語」「番町皿屋敷」などが出世作で、歌舞伎の伝統に西欧的自我や近代性を盛り込み、演劇雑誌「舞台」を創刊した。

小説でも「半七捕物帖」68編が大衆の文学として今日まで愛されている。

俳句は余技とはいえ、還暦の節目に「独吟」1066句を発表している。

 

 

 

    鬼ともならず仏ともならで人の秋

 

    更る夜の外は雪なり歌留多会

 

    春雨に女の駕籠や三輪の茶屋

 

    油さす僧や祇園の灯とり虫

 

    すっぽんの恋知る頃や水ぬるむ

 

    京の花大石蔵之助酔はせたり

 

    味噌汁に蜆の砂も土用かな

 

    売れ残る雛のなみだや雨の市

 

    初午やほかの社は神無月

 

     

 

      

 

  第21回 青木月斗

 

 

 

      

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重陽の天晴れ菊の白きかな

 

 

青木月斗(1879〜1949)は大阪船場の薬種商の家に生まれ家業を継いだが、明治

30年頃より新聞「日本」の俳句欄に投句、最初は月兎と号し正岡子規の弟子となった。

「車百合」「カラタチ」を主幹しその後大正9年より「同人」を主宰した。「俳諧の西の奉行や月の秋」という祝句を子規から送られるなど、関西俳壇の巨匠として活躍した。生前に句集は出さず、没後「月斗翁句集」が編まれた。

 

 

 

     門前すでに丈余の萩の盛りかな

 

     元旦や暗き空より風が吹く

 

     天墨の如し大雪になるやらん

 

     雪霏霏と夜半の都の燈哉

 

     春愁や草を歩けば草青く

 

     城頭に大阪を観る霞かな

 

     麗や女女を顧みる

 

     舟中に山を仰ぐや青嵐

 

     時鳥朝夕べに山三日

 

     

 

  

 

  第20回 石田波郷

 

 

      

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くろがねのすは海戦ぞ百日紅

 

 

石田波郷(1913〜1969)は愛媛県松山市の近く、垣生村に生まれ、最初は水原秋桜子門下の五十崎古郷に師事、東京に出て秋桜子主宰の「馬酔木」に投句、編集の仕事にも携わりました。

胸を患ったことで病床俳句を極め、俳句は生活そのものという信条で結社誌「鶴」を創刊し主宰となりました。

掲句は兵役時代のものと思われますが、戦後の句集「惜命」は人間探求派の一つの到達点として大きく評価されています。

調布市の深大寺に墓所があり、「石田波郷」という自筆の墓碑銘が彫られています。

私も1度訪れたことがありますが立派な墓で感心しました。

 

 

     バスを待ち大路の春をうたがはず

 

     初蝶や吾が三十の袖袂

 

     胸の手や暁方は夏過ぎにけり

 

     葛咲くや嬬恋村の字いくつ

 

     雁やのこるものみな美しき

 

     合歓の月こぼれて胸の冷えにけり

 

     立春の米こぼれをり葛西橋

 

     西日中電車のどこか?みて居り

 

     霜の墓抱起されしとき見たり

 

     力竭して山越えし夢露か霜か

 

     雪はしづかにゆたかにはやし屍室

 

     

     

 

 

 

 第19回 渡辺水巴

 

 

      

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てのひらに落花とまらぬ月夜かな

 

 

渡辺水巴は(1882〜1946)、画家渡辺省亭の長男に生まれ、浅草で育ちました。

最初内藤鳴雪の弟子となり、高浜虚子の「進むべき俳句の道」で大きく取り上げられ脚光を浴びる中、大正5年には俳誌「曲水」を創刊、唯美主義的な「生命の俳句」を推し進めました。

掲句は高速度撮影のようなモダニズムあふれる彼の代表作です。

 

 

     かたまって薄き光の菫かな

 

     秋雨や漆黒の斑が動く虎

 

     冬の夜やおとろへうごく天の川

 

     うすめても花の匂の葛湯かな

 

     天渺渺笑ひたくなりし花野かな

 

     雲に明けて月夜あとなし秋の風

 

     春寒く咳入る人形つかひかな

 

     冷え冷えと雲に根は無し更衣

 

     さみだれのさざなみ明り松の花

 

     年の夜やもの枯れやまぬ風の音

 

     

 

 

 

 第18回 泉鏡花

 

 

      

                     <H・H’sCollection>  

            

 

 

袖笠や雪に灯す石燈籠

 

 

泉鏡花は(1873〜1939)、金沢市に生まれ、上京して尾崎紅葉に師事しつつ、江戸文芸に影響を受けた小説、戯曲を発表する傍ら、俳句も手がけました。

「外科医」「高野聖」「夜叉ヶ池」「歌行灯」等の傑作は幻想文学のさきがけといわれています。

 

 

     おぼろ夜や去年の稲づか遠近に

 

     影向のあさきすみぞめ夕櫻

 

     日盛や汽車道はしる小さき蟹

 

     髪長き蛍もあらむ夜はふけぬ

 

     花二つ紫陽花青き月夜かな

 

     黒猫のさし覗きけり青簾

 

     古蚊屋にランプの宿よ初あらし

 

     松明投げて獣追ひやる枯野かな

 

     京に入りて市の鯨を見たりけり

 

     片時雨杉葉かけたるノ軒暗し

 

 

 第17回 永井荷風

 

      

                     <H・H’sCollection>              

 

    

 

枝刈りて柳涼しき月夜かな

 

 永井荷風(1879〜1959)は東京に官吏の子として生まれ、小説家、随筆家として活躍する一方、江戸市井風の俳句もたしなみ、近代日本の現状を嫌悪し、江戸や色町の風情を愛しました。

5年余りの外遊の後、「あめりか物語」「ふらんす物語」で作家の地位を確立、代表作は「墨東綺譚」。

偏奇館と名付けた洋館に住み、戦後には文化勲章を受章、晩年も一人自由に著作に専念しました。

 

    行く春やゆるむ鼻緒の日和下駄

 

    粉薬やあふむく口に秋の風

 

    冬空や麻布の坂の上りおり

 

    葉ざくらや人に知られぬ昼あそび

 

    寒き夜や物読みなるる膝の上

 

        下駄買うて箪笥の上や年の暮

 

    傘ささぬ人のゆききや春の雨

 

    うぐいすや障子にうつる水の紋

 

    色町や真昼しづかに猫の恋

 

    物干しに富士や拝まむ北斎忌

 

    八文字踏むや金魚のおよぎぶり

 

 

 第16回 河東碧梧桐

 

      

                     <H・H’sCollection>              

 

    

 

麦刈りじまひの馬かけて野良聲  

 

 河東碧梧桐(1873〜1937)は愛媛県松山藩士の子として生まれ、京都三高から仙台ニ高に移りその後中退しました。

同郷とあって正岡子規に高浜虚子ともどもかわいがられていましたが、有季定型に基盤を置く虚子とは袂を分かち、子規亡き後、新聞「日本」の俳句欄を継ぎ、いわゆる新傾向俳句を推し進め俳句会の革新運動の先頭に立ちました。

1906〜1911には2度にわたって全国行脚しましたが、1933年の還暦にあたって引退宣言を行い創作活動に終止符を打ちました。

その数年後65歳で没した時、ライバルであった虚子は「たとふれば独楽のはじける如くなり」という有名な弔句を送って碧梧桐の功績をたたえています。

 

    赤い椿白い椿と落ちにけり

 

    蚊帳ごしに日のさして居る朝寝かな

 

    木枯や水なき空を吹き尽す

 

    公園の月や夜鴉かすれ鳴く

 

    しだり尾の錦ぞ動く金魚かな  

 

    蕎麦白き道すがらなり観音寺

 

    相撲乗せし便船のなど時化(しけ)となり

 

    雪チラチラ岩手颪(おろし)にならで止む

 

     ミモーザを活けて一日留守にしたベットの白く

 

     曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ

 

 第15回 芥川龍之介

      

                     <H・H’sCollection>              

 

芥川    

 

草の家の柱半ばに春日かな  

 

 芥川龍之介(1892〜1927)は生後7ヶ月で母が発狂したことにより母の実家に預けられ、11歳の時、芥川家の養子となりました。

東京大学在籍中に小説「鼻」を発表し夏目漱石に激賞され文学の道に進むと、以後今昔物語などの古典から「芋粥」「地獄変」「羅生門」などの作品を執筆、「蜘蛛の糸」などの童話も手がけ、短編小説の名手として人気を博しました。

「唯ぼんやりとした不安」という理由で35歳の若さで服毒自殺を遂げ,多くの人たちから惜しまれました。

 

    木がらしや東京の日のありどころ

 

    木がらしや目刺にのこる海のいろ

 

    元日や手を洗ひをる夕ごころ

 

    兎も片耳垂るる大暑かな

 

    初秋の蝗つかめば柔かき

 

    咳ひとつ赤子のしたる夜寒かな

 

    水洟や鼻の先だけ暮れ残る

 

    青蛙おのれもペンキ塗りたてか 

 第14回 久保田万太郎

      

                     <H・H’sCollection>              

 

久保田

 

炭の香の泪さそふやニの替  

 

 久保田万太郎(1867〜1947)は浅草に生まれ慶應義塾大学時代に「三田文学」に小説を発表し文壇にデビューしました。

歌人、詩人、劇作家でもあり、特に俳句は余技のレベルを超えて俳誌「春灯」を主宰、数々の名句を生み出しました。

1957年には文化勲章と文化功労者を同時受賞して評価を定めましたが、昭和38年梅原龍三郎邸で開かれた宴会で貝のにぎり寿司を誤嚥下して窒息死するという悲劇に見舞われました。

揚句の「ニの替」(にのかわり)とは特に関西で呼ばれる正月に行われる歌舞伎などのことで、一般的には初芝居、春芝居ともいわれます。

 

 代表句

 

    神田川祭の中を流れけり

 

    湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

 

    来る花も来る花も菊みぞれつつ

 

    あきくさをごつたにつかね供へけり

 

    鶏頭の秋の日のいろきまりけり

 

    したたかに水をうちたる夕ざくら

 

    ふゆしほの音の昨日をわすれよと

 

    新涼の身にそふ灯影ありにけり

 

    枯野はも縁の下までつづきをり 

 

    さす傘も卯の花腐しもちおもり    

 

 第13回 幸田露伴

      

                     <H・H’sCollection>              

 

幸田

 

作り作りはては作らぬ小菊かな

 

 幸田露伴(1867〜1947)は東京の下谷生まれ、本名を成行といい蝸牛庵など幾つもの号を持っています。小説家として「風流仏」をきっかけに「五重塔」「運命」などで文壇の地位を確立し、史伝、随筆にも健筆を揮い「芭蕉七部集評釈」などを著しました。

また尾崎紅葉と共に紅露時代を築き、第1回の文化勲章を受章しています。娘に幸田文、孫に青木玉など文芸の血を受け継いでいます。

 

 

    釣師撲つ露は銀河のしぶきかな

 

    霜の降る夜や車打つ鑿の冴

 

    長き夜をたたる将棋の一ト手哉

 

    山伏の梢ふみ行く若葉かな

 

    秋深しふき井に動く星の数     

 

 第12回 村上鬼城

      

                     <H・H’sCollection>              

 

村上

 

草刈の涼しき草の高荷かな

 

 村上鬼城(1865〜1938)は因幡国鳥取藩士の長男として生まれ、8歳の時より高崎に住み始めました。

 最初、陸軍士官や司法官を目指しましたが、耳疾のため果たせず、八女二男を養うため、やむなく高崎裁判所構内代書人となり生計を立てました。

 34歳の時、正岡子規につき俳句の道を歩むことになり、小動物や貧しい人たちにスポットを当てた句境を極め「境涯の俳人」として高浜虚子に認められました。

 

 

  代表作

 

    痩馬のあはれ機嫌や秋高し

 

    花散るや耳ふつて馬のおとなしき

 

    己が影を慕うて這へる地虫かな

 

    冬蜂の死にどころなく歩きけり

 

    ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな

 

    鷹のつらきびしく老いて哀れなり

 

    露涼し形あるもの皆生ける

 

    さみしさに早飯食ふや秋の暮

 

    生きかはり死にかはりして打つ田かな

 

    闘鶏の眼つぶれて飼はれけり

 

    念力のゆるめば死ぬる大暑かな

 

    水すまし水に跳て水鉄の如し  

 

 第11回 高野素十

      

                     <H・H’sCollection>              

 

高野

 

凧の糸二すじよぎる伽藍かな

 

 高野素十(1893〜1976)は茨城県北相馬郡山王村(現取手市)に生まれ、一高を経て東大医学部に入り、法医学を勉強する傍ら先輩の水原秋桜子に勧められ俳句の世界に入りました。

ホトトギスでは秋桜子、誓子、青畝とともに4Sの黄金時代を築き高浜虚子には特に高く評価されました。

手法的には客観写生の鬼とも呼ばれ、クローズアップの描写においては他の追随を許さないほどの域にまで達しました。

後にライバルの秋桜子と俳句観に大きなクレバスが生じ別々の道を歩むことになりました。

 

 

  代表作

 

    方丈の大庇より春の蝶

 

    歩み来し人麦踏をはじめけり

 

    ひつぱれる糸まつすぐや甲虫

 

    生涯にまはり燈籠の句一つ

 

    また一人遠くの蘆を刈りはじむ

 

    づかづかと来て踊子にささやける

 

    寒潮の一つの色に湛へたる

 

    街路樹の夜も落葉をいそぐなり

 

    蘆刈の天を仰いで梳る

 

    翅わつててんたう虫の飛びいづる

 

    蟻地獄松風を聞くばかりなり

 

 第10回 中村草田男

      

                     <H・H’sCollection> 

             

中村

 

           

 

花八手白雲ひそむ椎と樫  

 

 中村草田男(1901〜1983)は、本名清一郎、清国福建省アモイに生まれ、3歳の時に帰国、東大文学部在学中に水原秋桜子に師事、高浜虚子主宰の「ホトトギス」に投句しました。

強度の神経衰弱によって長期にわたる休学の後、32歳で卒業、教員生活に入りました。

俳句に人間の生き方を問う、いわゆる人間探求派の代表的な存在で、俳誌「萬緑」を主宰しつつ俳句界に大きな足跡を残しました。

「万緑」は彼が初めて俳句に取り入れた季語で、いまでは人口に膾炙しています。また「草田男」は自身が「腐った男」と言われていたのを俳号にもじったようです。

 

 

  代表句

 

     万緑の中や吾子の歯生えそむる

 

     葡萄食ふ一語一語の如くして

 

     町空のつばくらめのみ新しや

 

     鴨渡る鍵も小さき旅カバン

 

     蟾蜍長子家去る由もなし

 

     妻二タ夜あらず二タ夜の天の川

 

     おん顔の三十路人なる寝釈迦かな

 

     冬すでに路標にまがふ墓一基

 

     玉虫交る土塊どちは愚かさよ

 

     降る雪や明治は遠くなりにけり

 

     燭の灯を煙草火としつチエホフ忌

 

     勇気こそ地の塩なれや梅真白

         第9回 佐藤春夫      

                     <H・H’sCollection>         

      

秋深し淀川くだる竹筏  

 佐藤春夫(1892〜1964)は、和歌山県新宮市の医者の家に生まれ裕福な環境で育った。

 慶応義塾大学の頃より頭角を現し20代で「田園の憂鬱」を書き上げ一躍文壇の寵児となった。

 翻訳、評論、小説、詩、戯曲等広範囲な文学的活動を展開しロマン主義文学の代表的存在といわれた。

 私生活では複数の女優との同棲や結婚、離婚を繰り返し、谷崎潤一郎の妻、千代子との恋愛など奔放な人生を送ったが、昭和35年、文化勲章を受章した。

 掲句は大正14年、郷里より上京の途中、大阪で2週間ほど滞在していたときのもので、川に沿っていた宿から見た情景を即吟したもの。

 「わが部屋の秋の灯水にうつる哉」という句とともに「わが新居の事」という随筆に書きとめられている。

 第8回 飯田蛇笏

 

                     <H・H’sCollection>              

           鎌かけて露金剛の藜かな  

 飯田蛇笏(1885〜1962)は、山梨県境川村の豪農の家に生まれ早稲田大学の「早稲田吟社」に加わり高浜虚子に師事、「ホトトギス」では連続して巻頭をとるなど早くから逸材として名をはせましたが、処女句集「山廬集」は46歳になってから出版されました。

句柄は格調高く気品溢れるもので、風土性も巧みに織り込み他の追随を許さない境地に達しました。

俳誌「雲母」の主宰となり後身を指導、今年亡くなった息子の龍太は現代俳句の最高峰とまで言われましたが、生前に「雲母」を終刊して俳壇を驚かしたことは特に有名です。

掲句はまさに蛇笏調の典型で、「かな」の切れ字がどっしりと坐っています。

 

 代表句

       芋の露連山影を正うす

       しづかさや日盛りの的射ぬくおと

       たましひのしづかにうつる菊見かな

       死病得て爪うつくしき火桶かな

       流灯や一つにはかにさかのぼる

       死骸や秋風かよふ鼻の穴

       たましひのたとへば秋のほたる哉

       をりとりてはらりとおもきすすきかな

       くろがねの秋の風鈴鳴りにけり

       山寺の扉に雲あそぶ彼岸かな

       高浪にかくるる秋のつばめかな

       降る雪や玉のごとくにランプ拭く

       わらんべのおぼるるばかり初湯かな

 第7回 高浜虚子

                     <H・H’sCollection>              

 

春寒き浅間の雪の光かな  

 高浜虚子(1874〜1959)は、松山中学時代に河東碧梧桐と知り合い俳句を始め、正岡子規の指導を受け俳誌「ホトトギス」を引き継ぎました。

 親友碧梧桐とはその後全く違う道を歩み、客観写生、花鳥諷詠の理念の下、沢山の優れた俳人たちを育てたことでも有名です。

 渡辺水巴、飯田蛇笏、村上鬼城、原石鼎の第1期ホトトギス黄金時代、水原秋桜子、阿波野青畝、山口誓子、高野素十のいわゆる4Sの第2期黄金時代、その他にも中村草田男、松本たかし、杉田久女、中村汀女、星野立子など枚挙に暇がありません。

 その当時の俳壇をホトトギスが支配していたといっても過言ではありません。

 虚子は最初、小説家としても健筆を振るっていた事も関係して、夏目漱石の傑作「我輩は猫である」はホトトギスに連載されました。

 85年の生涯にわたって、近代俳句の王道を歩み続けた巨人として今も伝説的な存在として輝いています。

 掲句は小諸に疎開していたときのものと思われますが、堂々たる風格を感じさせてくれる一句です。

 

 代表句

      桐一葉日当たりながら落ちにけり

      蛇逃げて我を見し眼の草に残る

      眼つむれば若き我あり春の宵

      蝶々のもの食ふ音の静かさよ

      咲き満ちてこぼるる花もなかりけり

      手毬唄かなしきことをうつくしく

      彼一語我一語秋深みかも

      去年今年貫く棒の如きもの

      たとふれば獨樂のはじける如くなり

      白牡丹といふといへども紅ほのか 

      旗のごとなびく冬日をふと見たり

      天地の間にほろと時雨かな

      茎右往左往菓子器のさくらんぼ

      遠山に日の当りたる枯野かな

    

 第6回 阿波野青畝

                     <H・H’sCollection>              

            

大空の羽子赤く又青くまた  

 阿波野青畝(1899〜1991)は、奈良県の高取城の城下町に生まれ、小学校に入る頃より耳疾をわずらいました。

 「ホトトギス」に入り、20歳の時客観写生の考え方に疑問を覚え、虚子に手紙を出しますが「とにかく写生を訓練しなさい。それはあなたの芸術を大成するのに大事なことと考えます」という返事をもらい、それを励みとして句作に集中しました。

 25歳でホトトギス課題選者となり昭和4年には「かつらぎ」を創刊、ホトトギス黄金時代の4S(誓子・素十・秋桜子)といわれ活躍しました。

 昭和22年にカトリックに入信、俳句観をさらに深めました。

 

 代表句

      さみだれのあまだればかり浮御堂

      夕づつの光ぬ呆きぬ虎落笛

      丹頂の相寄らずして凍てにけり

      葛城の山懐に寝釈迦かな

      けふの月長いすすきを活けにけり

      山又山山桜又山桜

      鬱々と蛾を獲つつある誘蛾燈

      夜業人に調帯たわたわたわたわす

      水澄みて金閣の金さしにけり

      端居して濁世なかなかおもしろや

      水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首

      磔像の全身春の光あり

      赤い羽根つけらるる待つ息とめて

    

 

 第5回 室生犀星

   

                     <H・H’sCollection>              

            

鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな  

 室生犀星(1889〜1962)は、石川県金沢市に生まれ、寺の養子として育ちました。

 上京して「愛の詩集」「抒情小曲集」などの詩や、「幼年時代」「性に目覚める頃」などの小説を発表、萩原朔太郎や芥川龍之介らと親交を結び、戦後には自伝的大作「杏っ子」を執筆、高い評価を得ました。

 文学的開眼は俳句で、15歳の時「水郭の一林紅し夕紅葉」という句を作っています。

 俳号は魚眠洞といい4冊の句集に1750句を収めています。(処女句集は40歳の時、「魚眠洞発句集」です)

 前に取り上げた草城のミヤコホテル論争では、草田男や秋桜子の否定的発言に対し、西東三鬼と共に激賞しました。

 

 代表句

      青梅の臀うつくしくそろひけり

      あんずあまさうなひとはねむさうな

      栗のつや落ちしばかりの光なる

      蛍くさき人の手をかぐ夕明り

      ゆきふるといひしばかりの人しづか

      行春や版木にのこる手毬唄

      さくらごをたたみにならべ梅雨の入り

      あんずにあかんぼのくその匂ひけり

      うすぐもり都のすみれ咲きにけり

      春の山らくだのごとくならびけり

      ふるさとに身もと洗はる寒さかな

      わらんべの洟もわかばを映しけり

      沓かけや秋日にのびる馬の顔

 

 

 第4回 山口誓子 

                    <H・H’sCollection>              

         

碧揚羽通るを時の驕りとす  

 山口誓子(1901〜1994)は、前回の日野草城と同年で、京大三高俳句会で彼と知り合い、ホトトギスに投句を初めました。

昭和2年には虚子に認められ題詠選者となり、秋桜子、青畝、素十らとともに4Sとしてホトトギスの第2期黄金時代を築きあげました。

近代的素材や映画のモンタージュ理論などに啓発され独自の新しい俳句を展開していきました。

34歳の時、ホトトギスを辞し、「馬酔木」に同人として参加、昭和23年には「天狼」を創刊して主宰となりました。

桑原武夫の「第二芸術論」に反発して新興俳句運動の先頭に立ちましたが、あくまでも有季定型を守り通しました。

私にとっての誓子は、何といっても初期の作品群が素晴らしく輝いて見えます。

掲句も「時の驕り」という表現に彼のシャープで知的な感覚がうかがわれ、私の愛唱の一句となっています。

 私の好きな11句

      学問のさびしさに堪へ炭をつぐ

     匙なめて童たのしも夏氷

     落ち羽子に潮の穂さきの走りて来

     かりかりと蟷螂蜂の貌を食む

     夏草に機罐車の車輪来て止る

     ピストルがプールの硬き面にひびき

     夏の河赤き鉄鎖のはし浸る

     ひとり膝を抱けば秋風また秋風 

     海に出て木枯帰るところなく

     冬河に新聞全紙浸り浮く

     土堤を外れ枯野の犬となりゆけり     

 

 第3回 日野草城  

                     <H・H’sCollection>              

 

 

遠野火や寂しき友と手をつなぐ  

 日野草城(1901〜1956)は私の好きな作家の中でも特に惹かれるひとりです。

 彼の名はホトトギス時代から輝いていましたが、連作「ミヤコホテル」で一躍話題の人となりました。

 新婚初夜のシーンを時間を追ってストーリー性豊かに描いた虚構が賛否両論の渦を呼び、ホトトギス同人除籍という事件につながっていきます。

 女性の美しさを的確に捉え、恋愛俳句という世界に光を当てました。

 そのイメージの追求の深さは一頭地を抜けている感がします。

 掲句は大正10年4月号のホトトギス巻頭になった8句の内の最初の句です。

 友とはもちろん恋人のことでしょう。

 あまりにもストレートな言葉に読者のほうが赤面してしまいそうです。

 客観写生、花鳥諷詠論者のあの大虚子が推したのですから不思議です。

 

     牡丹や眠たき妻の横坐り

     春宵の咽喉に影落つ襟豊か

     春雨や頬と相圧す腕枕

 などの句が一緒に載せられています。

 あまりうまいとは思えませんが、真面目な字体です。

 

 私の好きな10句

      研ぎ上げし剃刀にほふ花ぐもり

     ものの種にぎればいのちひしめける 

     ところてん煙の如く沈みをり

     星屑や鬱然として夜の新樹

     秋の夜や紅茶をくぐる銀の匙

     玻璃盞の相触れて鳴る星月夜

     つれづれの手の美しき火桶かな

     手袋をぬぐ手ながむる逢瀬かな 

     白銅貨はまんなかに穴あきて哀し

     見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く     

 

 第2回 水原秋桜子 

                     <H・H’sCollection>              

           

 夜の雪の田をしろくしぬ鴨のこゑ  

 水原秋桜子(1892〜1981)は山口誓子、阿波野青畝、高野素十のいわゆる4Sの代表格として俳誌「ホトトギス」で活躍しましたが、主宰の高浜虚子の客観写生に疑問を持ち始め、「自然の真と文芸上の真」(昭和6年)の論考を展開し、「ホトトギス」を離脱、抒情性を前面に押し出した独自の道を選びました。

 主宰誌「馬酔木」を発刊、その傘下からは石田波郷、加藤楸邨、堀口星眠、藤田湘子など多くの作家たちが育っていきました。 

 掲句は第六句集「古鏡」(昭和17年)の中の1句で、昭和15年から16年冬までの間の502句が発表されています。

 雪が降り続く中、鴨の声によってますます田が白さを増しつつ夜は更けていきます。 

 静寂に包まれた銀色の世界が立ち現れてくる手腕は見事です。

 鴨を詠んだ句は他の俳人たちと比べるとかなり多く、この季語がとても気に入っていたようです。

 それにしても秋桜子の字の何と繊細なことでしょう。

 

 代表作

       葛飾や桃の籬も水田べり

     冬菊のまとふはおのがひかりのみ

     ふるさとの沼のにほひや蛇苺 

     高嶺星蚕飼の村は寝しづまり

     蓮の中羽搏つものある良夜かな

     青春のすぎにしこころ苺喰ふ

     蟇ないて唐招提寺春いづこ

     来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり

     啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 

     瑠璃沼に滝落ちきたり瑠璃となる

 

 第1回 加藤楸邨               

                                     <H・H’sCollection>  

 

機銃音満月の露ひき緊り  

 加藤楸邨(1905〜1993)は水原秋桜子に師事し「馬酔木」で頭角を現し、1939年「俳句研究」の座談会・新しい俳句の課題 での発言により、〃人間探求派〃と呼ばれるようになり、翌年俳誌「寒雷」を創刊し主宰となりました。

 上掲の句は第2句集「颱風眼」(昭和14年・1939年)の明暗抄5に収められている3句のうちの1句。 

 緊張感みなぎる満月の夜のある一瞬を捉えて秀逸です。

 他の2句は

      蟻地獄かく長き日のあるものか

      曼珠沙華落?を兵のよぎりつつ

 台風の眼のように環境がどんなに激変しようとも、その底にあって自身の激しさを見つめる無限に静寂なものの存在。

 それが俳句に望む「俳句眼」であるとその序で宣言しています。

 代表作

      鰯雲人に告ぐべきことならず

      寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃

      隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな

      火の奥に牡丹崩るるさまを見つ

      雉の眸のかうかうとして売られけり               

      蟻殺すわれを三人の子に見られぬ

      白地着てこの郷愁の何処よりぞ

      はたとわが妻とゆき逢ふ秋の暮

      長き長き春暁の貨車なつかしき

      幾人をこの火鉢より送りけむ

      死ねば野分生きてゐしかば争へり

      恋猫の皿舐めてすぐ鳴きにゆく

      寒卵どの曲線もかへりくる

      撃たれたる雉の目一瞬何を見し

      死ににゆく猫に真青の薄原

      

 

   

 

 

 

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