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いけばなの歴史を振り返りながら

 このページは1990年代前半に東京・赤坂の草月会館において開かれた草月

指導者連盟・講習会に数回にわたってレクチャーした「いけばなの歴史」の原稿を

もとにして書き起こしたものです。

 私のプレゼンの後、当時の勅使河原宏家元や関係者とのトークによってさらに

テーマを掘り下げようという試みでした。

 草月流の初代勅使河原蒼風氏、2代霞氏についての話や、いけばなと歴史的

空間との関わり合い、茶花がいけばなにもたらしたものなど、多岐にわたってさま

ざまな角度から論考が展開されました。

トークという形をとったので読みやすいと思い今回復元してみました。

 

 

茶花−1

今回のテーマは茶花です。

皆様方の中でお茶を稽古している人、指導している人などかなり沢山いらっしゃる

のではないでしょうか?

 一昔前はお茶お花といって若い女性の花嫁修業の一環として、ワンセットで捉え

られていました。

 かくいう私も二足の草鞋を履いて生活している者ですので、そのへんのところは

少し気後れしてしまう部分があります。

 私のこれまでの体験を通して、お茶をやっている人は茶花というものをある思い

込みの中で受け取りすぎてはいないか、また、お茶をやっていない人は茶花に対

する反発や無関心がありはしないか、と考えられる場面が少なからずありました。

 ですから今日はいろいろな誤解や偏見を呼んでいるいくつかの点に対して、改

めて切り込んでゆき、逆に茶花の持つ素晴らしい可能性に少しでも触れていけた

らと思うのです。

 利休の茶の湯に対する考え方がまとめられているとされる南方録という本の中

 「花生にいけぬ花は沈丁花、太山しきみに鶏頭の花、女郎花、ざくろ、河骨、金

銭花、せんれい花をも嫌也けり」

 という言葉があります。

 茶花における禁花とでも言うべきものがあげられているわけです。

 この文に見られるように茶花には茶の湯の点前のこまごまとした作法と同じく、

いろいろなタブーの花が規定してあってどうも堅苦しくていやだと思われる方がき

っといらっしゃるでしょう。

 確かに匂いの強い花などは山里の趣を尊ぶ小座敷の空間には息がつまるよう

に思われます。

 そこにはかすかに匂うものや香りのないものの方がふさわしいでしょう。

 でも、それらは立花のように強い禁忌を強いるというものではなく、それぞれの

茶人の好みや考え方、その時代の求めたものなどによって左右される趣味性の

範囲での好き嫌いであったと思います。

 立花はセレモニーの日、つまりハレの日のために立てられる花ですから忌むべ

き花はそのセレモニーのテーマによって厳然としてあったわけです。

 例えば出陣の時には首からストンと落ちる椿などは決して使われなかったので

す。

 茶花は茶事という数人の人たちの非常に個人的な遊びの中で行われたもので

すから、禁忌の基準はそれほど強くありませんでした。

 むしろ茶の湯の自由な精神からは禁花など設けないのが本筋というべきです。       

茶花−2

 次に茶花に対する誤解で、よく言われることのひとつに利休の「花は野にあるよ

うに」という言葉をめぐる解釈があります。

 蒼風先生は「あとで愚人がつくった寝言に間違いなし」と切っていますが、この言

葉の背景にはやはり立花の隆盛があったと思います。

 立花は一枝一枝にそれぞれの役割と意味性を持たせて巨大な構成を見せまし

た。

 花を「立てる」ということは庭師が石を立てるということと同じく、そこにはプロの

仕事、すなわち技術の練磨ということがあり、本来自由な伸長性を持つ植物に型

というイガタを押し当てることによって植物たちを窒息させてしまう危険性を有して

いました。

 利休はそうした花たちをよみがえらせようと、花たちが持っている新鮮な生命力

をもっと柔軟に象徴化したいと思い、この言葉にたどり着いたのではないでしょう

か。

 いわばアマチュアリズムの花、花を立てるのではなく「入れる」という、技術を否

定する気魄が感じられるのです。

 さて次には茶花は茶の湯の一連の流れの中でのごく一部分の表現に過ぎない

のではないかと言うことについて考えてみましょう。

 これはある部分では当たっていると思うのですが、そもそもの花の始まりから考

えてゆくと、そこには面白い史的展開が見えてきます。

 供華は一対の瓶花を仏像の前に置いたことから始まりましたが、それが左に花

、中央に香炉、右に燭台という三具足の形式になったため、左右対称であった花

が一方だけ残され、いわゆる右長左短(花の方から見て)というパターンが出来た

わけです。

 仏像は仏画に代わり、仏画が花鳥を題材にした書画に代わっていくことによって

宗教性が弱まり、装飾的な要素が強くなっていくのですが、床の間の形態も整い

数奇屋建築が確立されますと、その中で行われる茶事の形式もいっそう洗練され

たものになり、初座には軸だけを飾り、中立ちの後の後座には花だけを中央の土

壁に掛けることになったのです。

 つまり昔は尊敬の念を要請するものの前へ置かれた単なる供華であったのが、

いつしか自分自身が床の間の中央にひとつだけ置かれるというスターめいた存在

にのし上がっていたのでした。

 そしてそれを確立せしめたのが茶の湯であり、茶花は掛け軸と同等の重さを担

うものとなったのでした。                                           

 茶花−3

 四番目の誤解は茶花は花そのものよりも、花の器のほうが尊重されているので

はないかとする見方です。

 これも最初の頃は全くその通りで、中国から渡来した唐物の胡銅や青磁がもて

はやされ、例えばその器自体を鑑賞してもらうために花は邪魔だとして、水だけを

張って床の間に置いたという例もあります。

 しかし侘び茶がしだいに浸透するにつれ、和物、それも備前とか信楽とか、いわ

ゆる麁相なる雑器が拾い上げられ、さらには竹花入れという安易なる器が主流を

占めるに至ります。

 花自体を、言い換えれば花を入れることに、大きな価値を持たせることになった

のです。

 紹鴎の言う「冷え枯れる」体のものである麁相なる器は、そこに生命力のみずみ

ずしい花が入ることによって侘び茶の世界が完成されるのです。

 さて、最後に大きい問題ですが、茶花は茶の湯という特殊な芸能の中でのみ有

意義なものであるという説です。

 しかし私は茶の湯の底に流れる精神は日本人の哲学的な基盤であり、茶花は

その哲学に裏打ちされた表現であると確信しています。

 それは決して一部の特殊な社会で通用する瑣末主義ではなく、もっとグローバ

ルな考え方を取り込む興味深い思想の発見なのです。

 時間がないのでここでひとつだけエピソードを紹介しておきましょう。

 利休は「古花不知」といって菊やりんどうを嫌っていたそうです。

 それは時の経過を示すことのないものを嫌うということで、過ぎていく一瞬一瞬

の時をより深く感じ、そこに生命の実体を見ようとする態度です。

 ある武将が利休の茶会に招かれて行くと、床には水が入った花入れが置いてあ

るだけでした。

 不思議に思っていると利休が桜の枝を持って出てきました。

 武将は「散ってしまいますよ」と言うと、利休は「散ればこそ、散ればこそ」と言い

ながら花を入れたということです。

 これは

  散ればこそいとと桜は目出度けれ

  うき世に何か久しかるべき

 という伊勢物語の歌から取られたものですが、桜は散るものであるから美しいと

いう観念は茶人の、時に対する潔さでありますし、私たち現代人にもすぐ理解でき

る考え方だと思います。

 伊勢物語の例外はありますが、茶の湯以前の社会では大体においてめぐり来る

四季の時間感覚は、常に循環していく無限性を有していたのですが、戦国時代を

かいくぐってきた茶人たちにとっては散った花は去年散っていった花とは全く違う

ものであるとする意識、有限なもの、終わりのあるものだという考え、だからこそ美

しいのだとする思想を自分たちのものとしたのです。

 それは一期一会という言葉に代表させてもよいと思います。

 いけばなが瞬間芸術であるということの重さを、私たちは間延びした時間意識の

中で、改めてかみしめてみる必要があるのではないでしょうか。

                                     (了) 

 

 

勅使河原蒼風にみる草月流の歩み−1

 今回のテーマは草月流の歴史です。

 ベテランの草指連会員の方々にとってはもう周知のことかと思われますが、新し

い会員たちのためにもここでもう一度草月流の歩みを振り返り、今後のいけばな

活動に少しでも生かせていけたらと思ったわけです。

 草月流の歴史とはとりもなおさず、勅使河原蒼風の歴史でもあり、また広い意味

では20世紀いけばな界の歴史でもあります。

 蒼風氏は1900年に誕生していますから、西暦の下2桁の数字が大体数えでの

年齢とみてよいので、年譜もわかりやすいのではないでしょうか。

(以下、蒼風先生の敬称は略させていただきます。)

 彼の成し遂げた仕事は、いけばな500年の歴史の流れの中で見ても実に突出

したものとなっており、20世紀の巨匠を再考するにはこの短い時間の中ではとて

も困難に思えます。

 できるだけわかりやすく蒼風の歩みをコンパクトに凝縮してお話するのが私の仕

事ですが、言い尽くせない点などはこのレクチャーの後、宏家元とトークしていくこ

とによって、事の本質を明確にしていくつもりです。

 蒼風の年譜を私なりの考えで四つの時間的スパンで考えてみたいと思います。

 まず第1期は1900年の誕生から1926年の父、和風との訣別までの時期です。

 日本いけばな学会という組織の指導者であった勅使河原和風の下で、アプリオ

リにいけばなを生涯の仕事として定められた蒼風が花の修行をした時代でありま

す。

 5歳の頃から父よりいけばなの手ほどきを受け、15歳の頃には小先生と呼ばれ

るほどの人気を弟子たちから博していました。

 父はその当時としてはかなり進取の教え方をしていたのですが、それでも蒼風

にとっては自分の個性を少しでも出して変わった花を生けると頭から怒られてしま

うという状況が続き、とうとうそれに反発した蒼風は昭和元年に家を出てしまうこと

になるのです。

 与えられたものを守るのではなく、彼は彼の花を模索していくことになるのです。

この事件にまず草月流の精神がいみじくも象徴的に表れています。 

 さて次に第2期。

 彼は翌年草月流を名乗るわけですが、このときから終戦になる1945年夏まで

とします。

 蒼風は裸一貫で家を飛び出したものの、なかなか弟子が入門せずかなり苦労し

ました。

 花よりも看板を彫ったり、団扇に絵を描いたりして生活の資にしたことの方が多

かったようです。

 ここで見逃せないのが昭和30年代より蒼風が古事記連作として樹の彫刻に集

中しだしたことの下地がここにあるわけなのです。

 一見して停滞していたかに見える1年ですが、彼としては実に有意義な時間を自

分なりに工夫してやりくりしていたのでした。

 ここにも生活全般にわたるアーティストの目と仕事が大事であるという草月流の

ものの考え方があるように思えます。

 さてこの時期とても興味を引くエピソードがあります。

 蒼風がある料亭街を歩いていると、花屋がリヤカーに花をいっぱい積んでとある

料亭の裏口に車を止めました。

 しばらくすると器を抱えた女中さんが出てきて花屋に渡し、花屋は荷台の片隅を

テーブルがわりにして花をささっと生け、それをまた女中さんに持って行かせまし

た。

 蒼風はそれを見て、ああ、これだ。私もひとつこの方法でやってみようと思い、1

軒1軒料亭を廻って花を生けさせてくれないかと持ちかけたのです。

 最初は思うに任せなかったのですが、それでも1軒、また1軒と生けさせてくれる

お店が出てきました。

 あのときほど嬉しかったことはないと、後で彼はそのときのことを述懐しています

 生け賃は支払われなくとも、立派な花器に立派な掛け軸がかかっている立派な

床の間に、花を生けられる幸せを全身で味わったのですから。

 これは今で言う草月流のフラワーク(社会に出て行き、いろいろな空間に花を生

け、制作料をもらうという経済的行為)の先駆でもあります。

 いけばなが家庭生活の空間から外に出ていき、社会と交わったことの意味は評

価されていいと思います。

  

勅使河原蒼風にみる草月流の歩み−2

 でもそんな苦労した時間は実にわずか1年ほどのことでした。

 幸運の星の下に生まれた蒼風は彼の運命をどんどんたくましく切り開いていくの

です。

 創流の次の年には銀座・千疋屋のフルーツパーラーで流展を開き、ここでJOA

K(NHKの前身)の大沢豊子氏に認められ、一気にラジオ放送の仕事が舞い込ん

できたのです。

 そのラジオ放送が好評のため翌年には7回連続の講座となり、一躍蒼風と草月

流の名は全国に伝播しました。

 またこの同じ時期に主婦の友社の石川武美氏にも認められ、雑誌の口絵を飾

るという華々しいデビューも成し遂げたのです。

 つまりラジオと雑誌というその当時のマスコミの最先端とかかわることによって蒼

風は飛躍的に流の発展を図ることができたのです。

 しかも大正モダンといわれる大正から昭和初期という時代にあって、世の中には

非常に自由なのびのびとした空気が流れていました。

 蒼風の新しい花はその時代の息吹とピッタリと合致していました。

 いけばなはその時代その時代の要請に応えて形を変えていかねばならないとす

る草月流のポリシーがここでは実際問題としてよく密着していたと思わざるを得な

いのであります。

 蒼風の舵取りによって動き出した草月は次々と新しい試みをしていきます。

 如水会館での流展では当時無料であった入場料をかなりな有料として、いけば

なを音楽会や絵画展と同じように鑑賞する態度を見るほうにも要求しました。

 それは逆に考えればお金をとってもそれに値するような作品を作れとも言う、蒼

風の弟子たちに対するシビアな設定でもあったのです。

 いけばな作家であるというプライドを有料化というシステムを設けることによって

、彼なりにさまざまな人たちに対して、いけばなの芸術性を訴えたのだと思うので

す。

 昭和8年には如水会館展のほか、主婦の友社から蒼風の初めての本「新しい生

花の上達法」が発行されました。

 雑誌ではなく単行本として草月流のいけばなが本屋の書棚の一隅を占めたとい

うことは草月流自体が社会的に認められたということにもなるでしょう。

 それに先立つ昭和7年「婦人の友」に連載された…時代の心を取り入れた新し

い活花講座…での記者の質問に答えている蒼風の言葉が、草月流という組織が

どうして出てきたのか、いけばなの本質とは何かということを素直に全身で応えて

いると思われますのでそれを引用してみたいと思います。

 記者 

 あなたの草月流は何等古い型にとらわれない花の挿し方、極めて自由な近代的

な芸術意識によるものなのですね。

 蒼風

 そうです。

 私は自分の創始したものを草月流などと流儀呼ばわりすることさえ恥じています。

 実際私の花には一見してこれは草月流とわかるような型などありはしないので

す。

 ただ態度を鮮明ならしむるために、草月流などといってみなくてはならないので

す。

 もし少しでも何流というような意識が自分に動いたならば、それは私自身の花に

対する自由を自殺させます。

 その瞬間から花が私に背を見せてしまいます。

 花は生き物です。

 少しでもそこに人間の固定した意志を加えるならば、花はその真を失います。

 樹にある間は目にこそ見えないけれど花は絶えず伸びて、あたりの事情に合わ

せて姿を調えています。

 それが折られてしまえば花自身どうすることもできないのですから、人がそれを

助ける。

 これはその人の個性感情を花に与えることになりますね。

 即ち花と人が合致して一つの美を創作するのです。

 ですから花により、器により、人により、またそのときの感情により、創作される

花の姿は千種万態です。

 決して同じものが二つ出来はしないのです。

 それなればこそ創作なのです。芸術なのです。

 

 さまざまな活動によって蒼風は当時関東の横綱的存在であった安達潮花の安

達式いけばなを駆逐する勢いを見せて、とうとう東の蒼風、西の豊雲(小原流家元

)と言われるような存在にまでなったのです。

 しかし時代はつかの間の光を見せたものの、戦争という暗い時代へと傾斜して

いきました。

 

勅使河原蒼風にみる草月流の歩み−3

 第3期は終戦の年から始まる約10年間です。

 つまり1945〜1955年の昭和30年までです。

 この時期に蒼風の傑作、名作が目白押しに登場してきます。

 いわば蒼風芸術の最大のヤマ場といえます。

 戦後すぐの昭和20年11月、主婦の友社において小原豊雲との二人展が早々

と開催されました。

 焼け跡も生々しいときでしたから満足に花材や花器もなかったのですが、それで

も蒼風は焼き芋の釜などのありあわせのもので数十点の花を生けました。

 美しいものに飢えていた日本人たちや、日本の文化に好奇の目を注ぐアメリカ

の将校夫人たちで会場は連日満員となり大成功でした。

 まだこのときにはすぐ後に来る前衛いけばなの兆候は見られず、戦前の作風に

近いものでした。

 蒼風が華々しく認められたのは1951年の三巨匠展でした。

 三巨匠とは未生流副家元の中山文甫、小原流の小原豊雲、それと蒼風の三人

ですが、その中で蒼風は一段と高い評価を与えられました。

 「車」「ひまわり」「二羽の鳥」という伝説的な三大傑作を中心に豊雲、文甫をただ

ひたすら圧倒するもので、当時のジャーナリズムは蒼風に一方的に軍配をあげま

した。

 同じ年の第2回日本花道展にはあの有名な「虚像」が登場しました。

 古典の二ツ真立華を踏まえたといわれる力強いマッスの造形性には目を見張る

思いがします。

 それに先立つ終戦の年には疎開していた群馬県清里村にアメリカ進駐軍のジー

プが蒼風を迎えに来たという伝説的な事件がありました。

 在日米軍将校夫人のためにいけばなを教えてくれという要請で、翌年にはバン

カースクラブで外国人教室がスタート、それがひいては蒼風の第4期における旺

盛な海外活動を引き起こす下地になってくるのでした。

 下積み時代の看板彫りや団扇の絵描きが次の時代の彫刻家・蒼風や画家ある

いは書家・蒼風を生んだように蒼風の歴史をたどっていくとそこには一切のムダな

時間がなく、本当に密度の濃い芸術的時間をすごいスピードで駆け抜けた一人の

男の人生が浮き出してくるのです。

 

 勅使河原蒼風にみる草月流の歩み−4

焼け跡から拾ってきた鉄くずや焼けただれた木などを使うことによって、日常のモ

ノを独特のオブジェとしてとらえ直し提示しながら、人々にものの見方の意外性を

印象付けたり発想の転換を迫ったのも蒼風芸術の特色です。

 それらは前衛芸術と呼ばれましたが、蒼風は決して自らを前衛とは言わず、もっ

と身近な本能的な感覚でさまざまな異質素材を使いこなしていったのだと思います

 

 「花がなければどうしても花を探し出してきて生けなければならないというのでは

ないのだ。花がなければ土を生ければいいのだ」

 と言うように蒼風にとっては焼け跡のジャンクはいけばな造形のためのひとつの

面白い素材であり、それを取り上げたのも何も奇をてらったからではなく、彼の体

の中から自然に出てきたものなのです。

 戦火に明け暮れた室町時代の後半にしゃれ木を使った立華が登場したように、

いけばなはその時代を映す鏡であり、そこにはその時代が落としていったものをタ

イミングよく掬い上げて造形するといういけばな的行為が垣間見えてくるのです。

 それはやはり草月流の何でも生ける精神につながるものですが、その素材の取

り上げ方が作者にとってやむにやまれぬ状況での取り上げ方であれば、素晴らし

い可能性となって立ち現れてくるのでしょう。

 この時期の蒼風の傑作は乱暴かもしれませんが、大体三つの流れの中に分け

てみることができます。

 1) 鉄を溶接することによってそこに純粋な色と形としての花を持ってくるコラージ

ュ的手法   

   作品例…「車」「群れ」「散歩」

 2) 力強いマッス性を強調することによって立体的な造形性を打ち出し、これま

での線の構成を主体に考えるいけばなを打ち破ったこと  

   作品例…「虚像」「再建の賦」「黙」「玄華」「白い木」        

 3) 木に色を塗ったり、石膏をかけたり、大谷石を使ったりすることによってオブ

ジェいけばなを発見し、デペイズマン的手法やジャンクアート的な試みをしたもの

    作品例…「ミロの鳥」「月の像」「手」

 1と2と3は第4期以降に見られる枯れ木の組み合わせによる造形、あるいは銅

や鉄、真鍮などの金属板を木彫に貼り付け、やがてその全面をカバーして一見メ

タルの彫刻と見えるような作品、いわゆる「古事記」連作につながっていきます。

    作品例…「樹獣」「くぐつ」  

 

勅使河原蒼風にみる草月流の歩み−5 

     つまりこの約10年間に蒼風芸術のエッセンスがめくるめく展開されていった

のでした。

 もちろんこのような大作の一方、「ひまわり」や「プラタナス」に見られる小品で極

小の世界の厳しさもみせ、それが生活芸術として一般大衆の間に浸透していった

力も見落としてはいけないと思います。

 蒼風はアーティストとしても社会に影響力を与えていく人間としても大きな存在だ

ったと思います。

 一代にしてこれほど巨大な組織を作り上げた人物はこの世界では他に見当たり

ません。

 蒼風の花がいかに魅力的であったか、蒼風の他者への呼びかけがいかに誘惑

的であったか、まさに巨匠としての名に値する家元であったのです。

 第4期以降は海外活動をはじめ、着々と芸術的にも組織的にも大成していく順風

満帆の船を見るごとくですが、その過程でレジオンドヌール勲章とか芸術選奨とか

日本いけばな芸術協会の理事長であるとかの名誉を勝ち取っていくわけです。

 この辺の30年以降については会員の皆様もお詳しいと思いましたので、今回は

時間の都合上第3期までのお話とさせていただきました。

 第4期以降や2代霞家元、3代宏家元についての活動と仕事についてはまたの機

会にじっくりと取り上げていきたいと思います。

 今日お集まりいただいた皆様方には現在の草月流、これからの草月流を考えて

いく上で、今私たちは何を捉え、どう行動していったら良いのか、改めて流のポリ

シー、そして作家としてそこにどうかかわり合っていったら良いのかをも含めて検

討していただきたいのです。

 最後に蒼風氏の言葉を付け加えて私のレクチャーを終了したいと思います。

 これは草柳大蔵の「蒼風は“瞬”にあり」という雑誌「太陽」昭和41年8月号からの

ものです。

 「私のいけばなは日本文化に対する“運動”としてのいけばななのだ。

 奥座敷に閉じ込められたいけばなを明るみに引きずり出し、あらゆる環境の中

で表現していこうという運動だ。

 創作精神のための運動だ。

 花を生けるのではない、花を借りて創作のエネルギーを、人間全体を生けること

なのだ。

 その運動の担い手が草月流である。

 私自身は創作者としてその一部だ。

 蒼風は蒼風として一代限り。

 受け継がれるのは草月流であって蒼風ではない。」

                   (了)

 

 

いけばなと場の出会い−1 

 いけばな〜その歴史にみる光と影〜と題しまして皆様と一緒にこれまでのいけ

ばなはどうであったのか、また次の時代のいけばなはどうあるべきなのか、探って

いきたいと思います。

 今回は特に「場」の問題、つまり花が生けられた空間はどのようなものであった

のか、あるいはその空間によってどう花は変貌していったのかということに注目し

て論を進めていきます。

 花を生けるという行為が文献に表れてくる最も古いもののひとつに枕草子があり

ます。

 「勾欄のもとにあをき瓶のおおきなるをすゑて、桜のいみじうおもしろき枝の五尺

ばかりなるをいと多くさしたれば、勾欄の外まで咲きこぼれたる…」

 ここで着眼したいのは花はまだ部屋の中に入ってきていないということです。

 そうかといって全くの外部ではない、勾欄のたもとという非常に微妙な場でありま

す。

 いわば内と外の接点にまづ花が置かれたということです。

 その後しだいに花は人間の住空間に徐々に入り込んでいき、その入り込んでい

くことによって、ただの花から意図的に構成された“いけばな”に変わっていくわけ

です。

 いけばなが室礼としてのきちんとした自分の場所を持つことになったのは、鎌倉時代以後の当時の書院造り建築の流れの中でのことです。

 書院造り建築の大きな特色のひとつは引き違いの襖による間仕切りが多くなり

、必ず天井を張るようになったため、それぞれの部屋がいままでの寝殿造りに比

べて狭くなったということがあります。

 また広間などと呼ばれる接客用の部屋が特設され、そこに上段の間などが生ま

れ、仏画を壁に掛け、その前に香炉や供花を置くための場所、つまり押板の場が

定まりました。

 寝殿造りではほとんどが床張りでしたが、畳が座敷の周辺から追いまわしの形

で室内いっぱいに敷き詰められ、その一角に折敷と呼ばれる小テーブルを置き、

そこにさきほどの香炉とか供花が置かれたわけですが、その折敷が大きな板、つ

まり押板ですね、それに代わり、やがては床の間となっていくわけです。

 貴人たちが勉強や仕事をした文机も出文机といわれる造り付けの机となり、座

敷の西側に張り出しを作り、明障子の窓などを設けました。

 これがやがては書院と呼ばれ、筆や硯などの文房具の置き方などを定めた書

院飾りが成立することになります。

 また違い棚なども最初は移動できる棚だったのが造り付けとなり、ひとつのスタ

イルを持つようになりました。

 その背景には中国から沢山の絵画や器物が輸入され、それらを飾る場が必要

とされたからです。

 当時の建築はこの他に、人々が寄り集まって会議や事務を行う常設の建物もあ

ったようです。

 これは会所と呼ばれ、人々の交流、つまり遊興的な集まりの時によく使われたよ

うです。

 会所もまた同朋衆の手によって室礼、すなわち唐絵や唐物道具を飾ったり、た

て花がたてられたりした座敷飾りの場として展開しました。

 以上が花が花でなく、いけばな(たて花)というスタイルを確立するに至った大ま

かな経過です。

 以後、床の間といけばなは密接な関係で共存していき、花はその限定された空

間でカタチを整えていくことになります。

 

いけばなと場の出会い−2 

 さて次に三つの代表的な花が生けられた空間を取り上げ、皆様に考えるヒントを

差し上げたいと思います。

 まづ最初は城郭建築がもてはやされた安土桃山時代を中心にいけられた大き

な空間での巨大な花のことです。

 中でもユニークなエピソードは秀吉が前田邸に御成りになったときに池坊初代専

好によって立てられた花です。

 四間床といいますから約7メートルの大きなもので、四幅一対の猿猴図が描か

れていたといわれます。

 そこに幅2メートル、奥行き1メートルの平鉢を置き、巨大な砂の物を生けたので

すが、真に使われた松の枝に10数匹のサルがあたかも止まっているかのように

見えたといわれます。

 これなどは背景をそのまま取り込む「見立て」という手法をうまく駆使した心憎い

ばかりの作例です。

 2番目のエピソードは極小の空間、茶室での利休の話です。

 「秀吉公、春の頃、利休宅へ御成りの節、1畳台目にて御茶上げられ候に、天井

よりひるかぎして花生を吊り、糸桜の咲き乱れたるを、座にみちみち、にじり上り、

中敷居とひとしく生けられたり。公御座に入りあそばされ、御立ちもやらで、にじり

よらせ給い、座のかざりを御上覧あり。もうけの御座とて、枝ぶりのおのづからす

こしよぎたるかたに着座ましまし、御機嫌ななめならずなりしとなり。」

 床の間をはみ出した利休の桜は茶室の壁を突き破ってどこまでも伸び広がって

いくようなイメージを持って私たちに迫ってきます。

 朝顔の茶事にみられる一輪の茶花も極小の空間をキリリと緊張感に満ちたもの

にしますが、茶室いっぱいを花器として使うという、あえて逆手をいった利休の鋭さ

に感心するばかりです。

 

いけばなと場の出会い−3

 最後に少し花展の源流をたどってみたいと思います。

 茶室にしろ城郭建築にしろ花は床の間というものを中心に形を変えてきたので

すが、それはすべて人をもてなすためのある部分的な演出と言えなくもありません

 花展とは花だけで人々を集め、花だけを鑑賞するという花の自立性に関わってく

る問題だとも思います。

 花展の最も古い記録は平安時代まで遡れそうですが、その時代にあったものは

「花合せ」という一種のゲーム性に富んだ娯楽であったようです。

 南北朝から室町にかけては七夕法楽に代表されるような花御会となり、五節句

などの行事を主眼とした、つまり日本人の時間性というものと密接に関わってきた

ものとしてのイベントとしてあったようです。

 二条良基という当時のハイブロウな貴族の花会は、沢山のたて花を並べて七夕などの宵に鑑賞され、その優劣を競い、果ては飲食遊興となったということです。

 さてちゃんとした花展としての要素を満たした白眉のものとしては、ずっと時代が

下がり、江戸初期の後水尾院の禁中の大立花ではないかと思います。

 「後水尾院ハ、立花ニ於テ甚ダ堪能アル御事ナリ。禁中ノ大立花トイフ事ハ、コ

ノ御代ニコソアリケレ。主上ヲ始メ奉リ、諸卿諸家共、コノ事ニ堪能アル人ヲ択バ

レテ、紫宸殿ヨリ庭上南門マデ、双方ニ仮屋ヲウチテ、出家町人ニ限ラズ、ソノ事

ニ秀デタル者ニ皆立花サセテ、並ベラレタリ。秀吉ノ大茶湯後ノ一壮観ナリ」

 わざわざ仮屋を打って、つまり舞台めいたものをしつらえて、花に堪能あるもの

は誰でも立花させたということは特筆すべきです。

 江戸時代には酒楼などを使って花展が引き継がれ、20世紀初頭には小原雲心

が第1回国風式小原流盛花展を大阪の三越百貨店で開催しました。

 現在定着しているデパートでの花展方式のさきがけと言えるでしょう。

 ざっと花会の歴史を見てきましたが、芸術作品であるという認識に基づいたいけ

ばなが一人歩きし始める様子がこれらの歴史的展開にうかがわれると思います。

 しかし初期の頃にあった花をつくる人と花を楽しむ人たちとの心のふれあいとい

ったものが、しだいに冷めたクールなものとなっていくことによって、ある種の空虚

な思いが残された気もいたします。

 瞬間芸術である、その場のイキイキとしたパフォーマンスが、花が飾られる時間

の伸張によって薄められてしまい、花の命を見つめ、そこに本質を見るいけばな

の原点が失われつつあるという危惧も少なからずあるのではないでしょうか。

                            (了)