和の世界への誘い、難しいことではありません。お気軽にお問合せください

 表紙Haruo Hasegawa's memorial works 教室案内期間限定

いけばな 

いけばなへの誘い 

いけばな 教室の花 

いけばな H.H'sいけばなWORLDへようこそ 

いけばな いけばなトーク 

茶道 

茶道 茶道への誘い 

茶道 お茶ってなんだろ 

茶道 やってみよう基本の所作 

茶道 茶道具探検 

プロフィール 

インフォメーション プロフィール 

インフォメーション 教室案内

論文集 

インフォメーション 論文集 

スケジュール 

インフォメーション スケジュール・イベント 

インフォメーション 期間限定 

H'Hの部屋 

無題

映画

インフォメーション 俳句

  

第5回 花をいける「理念」-2

 

 あるとき投入れの花会があった。

 宗匠の入れた花を見て、同じ手にて挿すことなのにどうして宗匠の花

は格別の味わいがあるのだろうと一人が言うと、いや投入れは手にて挿

すのではなく、目にて挿すものだともう一人が言った。

 そこで宗匠は花は手にても挿さず、目にても挿さず、心で挿すものだ

と教え諭した。

 その場に居合わせた人たちはもっともなことだと大いに納得したが、

そばにいた少人がそうでしょうか、花は花で挿すものではないのですか

と素朴な疑問を呈すると一同失笑してその場が終わった。

 でも私(作者)が思うに、宗匠の言葉はあまりにも高上なるに似て面

白くない、少人の言えるところのほうが当っている。

 花は花によって姿かたちができるのだから。

 

 これは江戸中期の「茗話」という随筆の中のエピソードを私なりに現

代語に置き換えたものだが、なかなか的を射ている話だ。

 作者五井蘭洲は朱子学を修めた儒者で、さらに続けて「其物に付きて

用をなすは、天地聖人の心なり」としている。

 何はともあれ生ける植物を良く見てその本質を掴み取ってこそ花が生

き生きとして見えてくることになるのだという考え方は前回の近衛予楽

院の生付き論に通じ、また次に登場してくる文人花の理念に非常に近い

ものを含んでいる。

江戸の文人たちは中国の明末の詩文家、袁中郎(1568〜1610)

の「瓶史」から大きな影響を受けた。

彼は私的で風流な生活をより高等的に過ごすために花との距離感をなく

すほどの接近の仕方で独自の挿花の理念を探った。

花を尊ぶ「花崇」花の一生を知る「好事」花の生理を知ってそれに合っ

た水洗いを強調した「洗沐」などの章を挙げて花と自分が一体化した境

地にこそ真実の挿花が生まれるとしている。

この花に対する思想は連綿と続き、鹿鳴館を設計したジョサイア・コン

ドルは「ザ・フローラルアート・オブ・ジャパン」1891年(明治2

4)で、花を生けるという行為によって限りなく自然の法則に近づいて

いこうとするのが日本人であると紹介した。

自然を人間の方へ引き寄せる西洋のフローラルアートの思想との大きな

差異に彼は衝撃を受けたのだろう。

小原雲心や光雲による盛花は写景盛花によって伝統的な花材論に立脚し

ながらも、色彩盛花によってフローラルアートをうまく取り込み、出生

を無視した人工的な花を打ち出した。

つまりこれまでの日本的なるものと西洋的なるものとの二者並立を試み

たといえよう。

しかしこのような花は自然と色彩に分けるという形式自体、すでに主体

の自由な発想と自然の趣を軽視する形式主義に陥っていると西川一草亭

に批判された。

小原は自然との距離感をある程度設定してそこに芸術性を求めようとし

たのだが、西川は自然を突き放すことなく自分をその中に入れ込んでし

まうことによって至福のいけばなの世界が訪れるとしたのだ。

西川は主宰する去風流の機関紙を袁中郎の著作名そのものの「瓶史」と

名付け、いけばなに限らず建築、庭園、茶道など伝統文化全般にわたっ

てフォローした。

「牡丹切って一草亭を待つ日かな」という夏目漱石の俳句にあるように

当時の文化人たちを巻き込み大きな役割を果たしたといえる。

ちなみに草月流の機関紙は最初この「瓶史」にあやかって「瓶裡」とし

たことなどその影響の深さがわかるだろう。

さてこの時代、大正から昭和初期にかけては大正デモクラシーという文

化全般にわたって新しい活発な動きが次々と出てきた重要な時期である

ロシア革命によってますますその革新的な思想は浸透し、例えば文学の

世界では日本プロレタリア文芸連盟の結成などによってラジカルな雰囲

気が満ち、庶民は自由を享受し、ひととき明るい未来を垣間見させてく

れた時期でもあった。

そんな中いけばなの世界でも新しい呼び方で時代に呼応した花を提起し

た。

二葉流の家元、堀口玉芳は流の機関紙を「自由花」と名付け、次のよう

にその定義を試みた。

 「盛花、瓶花、景花、小品花等に附したる総括的言葉であって天地人

三才の格花以外の所謂芸術的表現花の総称である。自由花は飽迄も自由

でなくてはならない。

又其自由の裡には必ず統一された何物かがなくてはならない、即ち自由

花には自由花と云ひ得る程度の律がなくてはならないのである」

 

 未生流を中心にした関西華道界がまづその運動に関わっていったが、

さらにその考え方を掘り下げたのが山根翠堂であった。

 彼は1927年(昭和2)「新時代の挿花」を出版、真生流を旗揚げし

、華道を宗教の礼儀として用いられた時代、道徳を進める道具として用

いられた時代、享楽以外の何者でもない悪芸術に堕した時代という三つ

の時代区分を設定し、いつも何かに利用され続けてきたいけばなを統一

的に把握し止揚することによって近代いけばなが誕生するという「奴隷

いけばな解放運動」を起こした。

 

 「花の寿命を縮めることの罪悪も知って居る。貴重なる時間と金とを

犠牲にすることの恐ろしさも知って居る。しかし生けずには居られない

から生けるのだと云ふ徹底味がなくてはならない。自分は花を生けるこ

とによって自分が生きて居る価値を見出すのだ。そこまで行かなくては

ならぬと思ふ」

                   …花を愛する者の魂の記録 1922(大正11)

 

 いけばなにおける真・善・美が合体し初めて真の芸術として認められ

るとした主張は、しかしヨーロッパの近代芸術の思想とは言えずあまり

に東洋的な情緒性に凭れかけたものとして評論家・重森三玲との間で論

争となりいけばな界を揺るがせた。

 重森は大正7〜8年頃よりいけばな評論活動に手を染め始め、「花道学

原論」を執筆、華道専門の美術学園を設立しようとしたが2回にわたっ

て挫折、また審査制の第1回挿花芸術展なども企画実行するなど意欲的

に旧体質であった華道界の刷新に力を注いだ。

 1933年(昭和8)には日本新興いけばな協会の設立を目論みたが新

興いけばな宣言の草案は結局未発表に終わった。

 

新興いけばなは懐古的感情を斥ける。懐古的な如何なるものにも生きた

世界は求められない。そこには静かに眠る美よりない。

  新興いけばなは形式的固定を斥ける。創造はつねに新鮮なる形式を生

む。固定 した形式は墓石でよりない。

新興いけばなは道義的観念を斥ける。いけばなは宗教的訓話ではなく、

道話的作話でもない。何よりこれは芸術である。

新興いけばなは植物的制限を斥ける。芸術としてのいけばなは断じて植

物標本ではなく、又植物学教材でもない。植物は最も重要なる素材であ

るのみである。

新興いけばなは花器を自由に駆使する。花器によってわれわれは制限を

受けない

自由に駆使する。花器は又われわれの手によって屡々製作せられ、よき

製作者とのよき共同が行はれねばならない。花器は又われわれの新しき

意図のもとに、古きものを新しき生命あるものとして、生かさねばなら

ない。

新興いけばなはあくまで発展的であって、一定の形式を持たない。

だが現代の生活様式に対して、つねに芸術的良心をもって結びつけられ

る。

時代を超越した遊戯でも、生活を逸脱した形而上学的存在でもない。

ただそれは在来のいけばなに対する偏見と盲従とから見るときわれわれ

の仕事はまったく別の仕事である。

新しき精神は全く新しき相貌をもって表はれるであらう。

 

 少し長くなってしまったが華道史上極めて重要な宣言であるのでじっ

くりお読みいただきたい。

 これまでのいけばなは「極楽の島の上に惨めにも取り残された運命的な

敗残者」であり、いけばなを「現在に於ける新しき生活意識のもとに発

見し、批判し、把握しなければならない」、そのためには「封建的イデ

オロギーから解放し、床の間の壁面と型とを否定するところから始めな

くてはならない」としている。

やがて第2次世界大戦によって自由な空気は一気に吹き飛ばされてしま

うが、この宣言には勅使河原蒼風も名を連ねており、戦後の前衛いけば

な運動がこれを引き継ぎ、大きな変革を遂げていくことになる。

   (了)

 

 

第4回 花をいける「理念」

 

 前回の「形」についての論考で意図的に省略していた重要な観点があ

った。

それはその形が生まれてくる根拠となる考え方である。

つまりただやみくもに新しいものを追い求めていったわけではなく、そ

こには時代が要請する思想背景が必然的なものとして横たわっていたは

ずで、その中から花人たちは自分たちの花の理念を模索していった。

それがなければ根無し草のようにあっという間に枯れつくしてしまうだ

ろうし、それほど多くの人々を巻き込んだ熱情も生まれてこなかっただ

ろう。

例えば未生斎一甫が提出した直角二等辺三角形は天地人三才を中心にし

た儒教道徳が大きな影を落としている。

また江戸の数学、物理、天文学などの近代科学を基とした合理主義的思

考が花を抽象的な形として捉えなおすことを促し、花と宇宙という関係

性の中で独自な哲学が展開された。

花の形と理念とがはじめて明確に一体化された画期的なもので、当時の

庶民たちを大いに納得させたことだろう。

もともと花は宗教から離れられず、その温床の中でぬくぬくと育てられ

てきた。

その枠内でのみ有効な、あるいは慣習的な、さらには迷信めいた事柄が

花を生ける人たちの心の底に潜んでいた。

例えば「きたうの花の事」、つまり病気にかかっている人のために祈祷

する時は常夏のものは生けてはいけないという。常緑の植物はいつまで

も変わらないので病も治りにくいという考えからきているのだ。

また「わたまし」(移転)の時には火を連想させる赤い花は嫌われた。

(仙伝抄…1445〜1536の間、富阿弥から7人を経て池坊専慈に

相伝されている箇条書きの初期の伝書)

 

花を生けるとこれだけの良いことがあるという現世利益的な考え方も見

逃せない。

例えば「早く尊位に交わる徳」という項目では、大衆の一人に過ぎない

ものが、花を生ける技を通して天皇や貴族に接し、出世のチャンスをつ

かむことができるという考え方など、今も昔も変わらぬ人間の業のよう

なものを感じさせて面白い。(文阿弥花伝書…西教寺7巻本1558)

当時の時空間にタイムスリップして直接その雰囲気を味わうことを想定

してみれば、それらはあながちつまらない考え方だと単純に排斥できな

い。

そこには人々が花にこめた祈りにも似た切実な思いがこめられていたの

に相違ない。

室町時代末期の天文年間は花伝書が多く書かれたが、花の理念を最初に

格調高く押し出したのは池坊専応口伝である。

 

 「瓶ニ花ヲサス事、唐シ日本ニモ古ヨリ有トハ聞侍ド、其レハ美花ヲ

耳賞シテ、草木ノ風興ヲモワキマエズ、只、サシ生タル斗也。

  此一流ハ、野山水辺ヲノヅカラナル姿ヲ居上アラワシ、花葉ヲカザ

リ、ヨロシキ面影ヲ本トシテ、サシ初ヨリ以来タ、一ノ道世ニヒロマリ

テ、都鄙ノ翫トナル也。

  柴ノ庵ノサビシサヲモ、忘レヤスルトテスサミニ、破瓶古枝ヲ拾立

、是ニ向テツラツラヲモヘバ、(中略)

只、小水尺樹ヲイテ、江山数程ノ勝ガイヲアラワシ、暫時頃剋ノ間ニ

、千変万化ノ佳興ヲモヨヲス。宛カ仙家ノ妙術トモ云ベシ」 

                 享禄三年(1530)二月吉日

 (他に大永三年本、天文六年本、天文十一年本があり推敲を重ねたよ

うだ)

 

専応はここで花の美しさばかりに眼がいってしまい、ただ生けただけの

花が何と多いことかと批判する一方、私たち(池坊)は野山水辺に咲い

ている花の真の姿を、ほんのちょっとした水と小さな枝で大きな宇宙を

表わすことができ、時が移り変わるにつれ千変万化の美しい景色が味わ

えると宣言している。

破れた瓶に古い枝を拾って生けるという考え方は侘び茶の世界にもつな

がる哲学をも感じさせる。

さて花に「道」という考えかたを導入したのは元禄の頃活躍した桑原富

春軒仙渓であるが、その著書「立華時勢粧」(1688・貞享五年)の

中で精緻な花論を展開した。

形よりも花材そのものに着眼し、常盤木、花、実、通用物、草など性格

による分類を行い、それらを最初に持ってきているところが今までにな

い構成となっている。

薬草や薬用となる動植鉱物を研究する「本草学」がその頃流行し、また

植物栽培の技法も一段と深まった時代でもあったことがこうした取り上

げ方になったと考えられる。

彼は「九品之花形立様之事」の中で形を真・行・草に分けさらにそのそ

れぞれに真・行・草の形を設けるという段階的な発想をしており、最終

的に目指すのは草の花形であるとした。

このプロセスが「道」を求めるということで、その考え方を推し進める

と「心は君のごとく、六の枝は臣のごとし。心は位ありて幽玄なるを用

ふべし。六の枝は勢つよく、働きあるを要とす。是君臣合体の意なり」

ということになり、封建的身分秩序を体制の柱とした幕府の思想に貢献

することになる。

日本文化の各分野における「道」化はこの江戸時代に定まったと言える。

仙渓は己の中に互いに背反するものを抱えていた興味深い作家で、思想

としては正統的形式的であったが、作品は「名人の花といはば十度二十

度さすといへども珍しき一手あらずという事なし」と言っているように

、その独自性を高らかに打ち出し、自然の驚異に着眼し、異様で自由奔

放な立華を華々しく生け続けた。

元禄は歌舞伎の世界が脚光を浴び、カブク(偏奇)ことが求められてい

たことも微妙に作用しているのかもしれない。

 享保年間に活躍した近衛予楽院(1667〜1736)は「花木真写

」といわれる写実的に描いた草花図で有名な文化人だが、彼はまたいけ

ばなにも深い造詣を持ち、花そのものに迫った仙渓の考え方をさらに突

き進め、花の出生について次のような見解を述べている。

 

 「大方ノ人、投入ト云ハ、立花ナドノヨウニ、タメツユガメツシテ入

ルコトデナシ。

 枝ノナリヲ其尽ニ入ルルヲ投入ト云ト視テ居ルハ、大ナル心得違也。 

 昔ノ人ノ、生木生花ノ枝ノナリヲ傷ハズト云ハ、タメヌコト、ユガメ

ルコトニアラズ。

 只ソノ木、ソノ草、ソノ花、ソノ枝ニヨリテ、ソレゾレニ生レ付タル

質ノヤウニ、生付ヲ傷ハヌヤウニセヨト云コト也」      

                          「槐記」

   (予楽院の言動を待医であった山科道安が書き留めた手記 

    1724〜1735)

 

 そのまま手を加えずに生けることが投入れだという解釈がまかり通っ

ているが、実はそれは大きな誤解で、そのものが本来持っている本質的

な真実をそこなわずに生けることが大事なのだという「生付き」論を展

開している。

 仙渓のまいた種のもうひとつの「花道」という考え方は、享保の改革

(1716〜1735)や寛政の改革(1789〜1800)などの幕

府の財政立て直し政策を通し、その強化案として極端な儒教道徳に染め

られていった。

 いけばなは人倫道徳を掲げ、体制に荷担し天地人形式を完成させてゆ

くことになる。

 

「花を賞すること都て五常の道に率をもて用意とすべし。

其中に生花の規矩たる事、礼と信とを表はして、仁義智をかぬると心

得べし」

  落帽堂曉山「生花正意四季之友」(1754・寛延四年)

 

花を生けたいという願望はどこからやってくるのだろうか。

 花の美しさの中に真実を見出すのか、己の心の中のカオスを浄化する

ためなのか、愛しき人たちとコミュニケートするために生けるのか、人

それぞれによって答は無限かもしれない。

 ともあれその根底に、何ものかに対する熱い感動がなければ、花が生

きたものにはなれないだろう

(第5回「理念」−2に続く)

 

第3回  花をいける「形」

 

   最初に現れた花の形に注目してみよう。

 それはいけばな以前の時代に宗教的なモノとして登場した依代だ。

 例えば正月に立てられる門松などはその典型的なものだ。

 神が来臨するための目印として、当然、真っ直ぐに据えられ先端は天

を指している。

「立てる」ことによって宇宙と交信するというイメージだ。

 また京都のやすらい祭りには花笠の上に松や山吹を立て、その下に入

ると無病息災の御利益があるとして、小さな子供を抱いた母親たちが集

まってくる。

 やがてその1本の木を心(しん)と呼ぶようになり、立て花が生まれ

てくる。

 狂言「真奪い」や古い花伝書にはシンの重要性が強調されて出てくる。

 前回触れた三具足の花は右長左短といって中心に置かれた香炉やそ

の向こうの燭台を意識したアンバランスな形となっている。

 つまり、仏像や掛け軸を背にして右の枝は長く、左の枝は短くして香

炉の邪魔にならないようにセッティングされた。

 仏教思想の濃かった当時は「ひらく枝は慈悲、いだく枝は知恵と心得

うべし」(仙伝抄)と解説されている。

 向かって右に大きな空間を残したまま、いけばなは整えられていった。

 そのシンの角度が少しずつ傾斜し始めることによって、形に動きが出

始めることになる。

 最初はシンと下草とのシンプルな構成だったが、そこに役枝といって

何本かの線が導入されることで、形が複雑化していく。

 立て花から立華と呼ばれる頃には7本から9本の線が重要視され、長

さも花器の4倍以上にもなり、ここに立華が大成されることになる。

 池坊二代専好(1575〜1658)はその頂点に立った作家だが、

「花ハツリアイアシケレバ、花ノスガタアシキ由也」(日野資勝卿記)

として、立花会の判者や批評家の役割もこなし、ただ単に形式を追いか

けるのではなく、そのときそのときの花材の組み合わせや空間のとり方

で、柔軟にひとつひとつの作品に向き合い、花の構成を調節していった

 弟子の十一屋太右衛門は師の作品を精緻に分析し理論化を図った。(

「古今立花大全」1683) 

 先ほどの立華という文字は彼が最初に使い始めたのだが、理論が先行

すると形式化が進み、考え方や行動(生け方)が硬直してくるのはどん

な世界でも同じだ。

 立華は巨大化し、花材も数日かけて探し回らなくてはならないので、

庶民には扱いにくいものとして敬遠されていくことになる。

 そのような時代状況を踏まえて登場してきたのが生花である。

 これはいわゆる役枝を思い切って3本までに単純化することによって

、庶民の誰でもが手軽に生けることができるようになり、立華に取って

代わった。

未生流の未生斎一甫は天地人三才論を展開し、直角二等辺三角形を編み

出した。

 

「天は昼夜の差別なく、万古運行して、しばらくも休息せず。

 故に其徳を動として、其象を円とす。

 地は天中にありて位を定め、万物これにつきて其所を安ず。

 故にその徳を静とし、其象を方とす。

 天地、徳を合せて、万物象をなす。

 これ花矩の起る原妙にして、初は天円にかたどりて一の円相を画く

まるの中心より左右上下へ十字の経緯線を引出す。(中略)

経線より折て東西を合するときは、三角の鱗形となる。

凡、天地間の形するもの、此三角形より出ざるものなし。

是により当流花矩は、天地自然の和合に叶ひ、三角形の鱗形をもって

挿花の形とするなり」               

                                    「挿花百練」1816

 

 天は円で表わし、地はそれに内接する正方形で表わす。

 正方形を対角線で折ると直角二等辺三角形となり、これを鱗と呼ぶ。

 天と地の間に人(ウロコ)がいて、調和させているという理論だ。

現代から見ればやや素朴な思想のようにも思えるが、当時は画期的な挿

花原理として受け入れられたようだ。

 この三角形は時間がたつにつれ、しだいに不等辺三角形に落ち着き、

いけばなの基本の形として今日まで伝えられている。

 確かに3本の線による構成は3次元の立体構成において最小にして必

要十分な形である事は間違いないし、静止している花に動きを与えるこ

とのできる形ではある。

 立華も絵図だけではわかりにくいが、前方や後方に役枝が配置され極

めて立体的で大きな球体となっている。

 2つの形を比較してみると並々ならぬ先人たちの努力の跡がわかる。

 生花の時代にはもうひとつ「文人花」というものも一部の愛好家の間

でもてはやされた。

 中国に憧憬を抱いた彼らは植物本来の美しさに注目し、あえてカタチ

を造らないことで素直な花の捉え方に表現の可能性を試みたといえよう

 これは中国風の花であると同時に茶花の影響も影を落としている。

 抹茶の作法の中から生まれた花と煎茶の作法の中から生まれた花との

違いはあるが、その中に流れる自由な考え方は立花や生花とは対極の位

置にある。

 明治に入ると伝統文化が古臭いものとして徹底的に叩かれ、生花を中

心としたカタチにこだわる流派は新しい時代の大波に呑まれ大打撃を受

けることになる。

 ある家元などは地方の支持者に金銭の援助を求める手紙を書き送って

いる。

 まさにいけばな史始まって以来の受難の時代がやってきたのだ。

 そんな中では文人花と遠州流の花が健闘し、特に遠州流は浮世絵にも

取り上げられ、その蛇行する曲線によって構成される形は奇しくもアー

ルヌーボーに陶酔していた西洋の人たちにアピールした。

 その西洋からも沢山の花材が流入されると同時に、早速フローラルア

ートが日本に紹介され大きな関心を呼んだ。

 小原雲心(1861〜1916)はそれらの時代に対応して盛花を考

案する。

 これは新しい形を模索していく中で植物の色とボリュームを強調した

手法であった。

 つまり線ではなく、塊(マッス)に注目したのだ。

 それに伴って盆栽の鉢をヒントに水盤という平たい花器を前面に押し

出した。 

 立花の中の砂の物といわれる形が数百年前から伝えられてきていたこ

とも参考になっただろう。

 第2次大戦後の前衛いけばな運動の嵐は植物以外の素材に触手を伸ば

し、美術の畑からも貪欲にその感性を取り入れようとした結果、図らず

もその時代との蜜月を送ることが出来た。

 造形力に秀でた勅使河原蒼風(1900〜1979)は斬新な作品を

発表し、新しいカタチを次々に超えていった。

 さらに勅使河原宏(1927〜2001)はいけばなは「立体造形」

であることを再認識させてそれを大胆につき進めた結果、形を超えたも

のの世界に踏み出すことも多くなった。

 ここまで来ると形のないもの、形を作ることを拒否するもの、形より

イメージや抽象概念、あるいはメッセージ性、思想性などが選ばれ、作

品も巨大化し、体全体でそのオーラを感じさせる見せ方など、さまざま

ないけばなに対する欲求が渦巻き、混沌とした状況が訪れてきている。

 そんな中でただひとつ忘れてはならないことは、いけばなのよって立

つ基盤とは何かということだ。

その地がぐらついたとき、いけばなは崩壊の危機に立たされるだろう。

(了)

第2回 花を生ける場ー2

 

  宝暦七年(1757)、千葉竜トという男が京都・慈照寺の足利義政公像の前で献

花のデモンストレーションを行った。

  自分の花はこの義政公より始まったいけばなを継承したものだ、と高らかに

宣言したのである。

 その後彼は東海道を下り百万都市・江戸に出て源氏流を開き、浅草寺の中の

梅園院で華々しく花会を挙行した。

  一躍彼は時代の寵児となり、一時は数百人の門弟を擁するまでになった。

 立華に飽き足りなくなった庶民の気持ちをつかむのに優れ、花書も次々と出

版し当時のマスコミをうまく操作し、宣伝を怠らなかった。

 この時代、俳諧師たちの間で添書を持参して同好の仲間たちを訪ね歩くとい

う、いわゆる「遊歴」が盛んに行われたが、彼はこれに近いことをやりつつ、江

戸へ向かう宿場宿場でちょっとした花会を催していたようだ。

 そのための仕掛けの小道具、大道具を携えていて、そのひとつに花衣桁とい

う飾り道具があった。

 着物を掛けておく衣桁から発想されたとされ、部屋の襖近くに設営すれば、花

を掛けたり、吊ったり、置いたりといろいろな工夫で何箇所にも花を飾ることがで

きる道具だ。

 竜卜は、釘を打つことができない場所でも花を掛けて楽しむことのできる「垂撥

」という装置も持参して、急遽花会に集まった人たちに見せた。

 旅の途次をも無駄にしない彼の努力は評価されてもいい。

  そうこうして江戸に着いたときには沢山の弟子たちがすでに養成されていた

のかもしれない。

  旅という動き続ける「場」を捉えた面白い事例だ。

  ただあまりにも急成長し過ぎた源氏流は、彼一代で終わりを告げることとなる。

 山師的なあざといやり方だとは思うが、享楽的な雰囲気の明和・天明の江戸

の町と一体となって踊り続けた生き方は興味深い。

 さて、その時代は浮世絵にも見られるように江戸の文化が円熟し、独特の世

界が庶民たちに楽しまれていた。

 花会も茶屋や料亭といったくだけた場でたびたび派手に開かれ、裕福な町民

らが高価な花入れを見せびらかすサロンを形成していた。

 あまりにも行き過ぎた花会はお上の取り締りの対象とされ、そんな事象を皮肉

ってパロディ化した「抛入狂花園」などという滑稽本も書かれ、なんでも笑いの

世界にしてしまう庶民のパワーがあふれていた時代だった。

  それまでの花会は僧侶や上流階級が主流で、寺院や宮中で開くことが多か

った。

  初代池坊専好が慶長4年(1594年)に京都・大雲院の落慶法要の際に行った

「百瓶華会」は初めての本格的な花会といわれ、出品者百人のうち八十八人が

僧侶であった。

  少し下って二代専好の頃には後水尾院という大パトロンが現れ、宮廷や仙

洞御所で一年に数十回も花会が行われた年もあったという。

              

 後水尾院ハ、立花ニ於テハ甚ダ堪能アル御事ナリ。

 禁中ノ大立花トイフ事ハコノ御代ニコソアリケレ。

 主上ヲ始メ奉リ、諸卿諸家共、コノ事二堪能アル人ヲ択バレテ、紫宸殿ヨリ庭

上南門マ デ、双方ニ仮屋ヲウチテ、出家町人ニ限ラズ、ソノ事ニ秀デタル者ニ

皆立花サセテ、並べラレタリ。

 秀吉ノ大茶湯後ノ一大壮観ナリ。

                                 「塊記」

 

 北野の大茶会が引き合いに出されるほどの華麗なものであったらしい。

  これは百年後に書かれた本なのでどの花会か特定できないが、その当時の

雰囲気はこんなものだったとみてよいだろう。

 また別の資料には花席の配置図が残されており、出品者の名前も書き込ま

れているところなど今の花展とさほど変わらないのは面白い。

  前号で触れた室町時代の七夕法楽が時代時代によって形を変え引き継がれ

てきたものと考えてよいだろう。

  時間を一気に飛んで西川一草亭(1878〜1937)の花会を見てみよう。

  彼はそのつどテーマを設けて、見る人たちを楽しませた。

  例えばそれぞれの名所にふさわしい花を表現したり(「京名所五十題花会」)

、西行、光悦、蕪村などの文人、芸術家に模したり(「擬古人挿花展覧会」)、所

蔵していた伝書を基にそれぞれの時代のいけばをを再現したり(「挿花時代展

覧会」)、他にも支那風、日本風、欧米風等に部屋を割り振って展示するとか、

いけばなを絵画に例えたり、「源氏五十四帖花会」などといったように枚挙に暇

がないほどの趣向をこらすアイデアマンであった。

  この時代で特筆すべきは岡田広山(1876〜1970)によって軍艦の進水式や

観艦式などの儀式に挿花数瓶が献じられている事例だ。

 日清・日露戦争によって加速された軍備拡張の要請はこんなところにも思わぬ

「場」を提供していた。

 さて、これまでは花会という「ハレ」の場について語ってきたが、床の間中心主

義の室町時代に、「ハレ」以外の「ケ」の場が見受けられたことにも注目したい。

  「仙伝抄」という古い花伝書に、掛花瓶、釣花瓶、違い棚などが書き留められ

、中でも「隅の花」とある項目が面白い。

 

 ざしきのすみに花をいくる事。

 すこし風をもたせ。木末に草葉をざしきの中へなびかせ。すみよりすみへむか

ふこゝろに立べし。

 よろづ草木のうしろへなびく事然べからず。

 されども、した草はたてなびけぬといふことあり。

 

「春日権現験記絵」(1309)には、部屋の片隅にいけた、かえでの絵が見られる。

 普段着の花は日常的ゆえ記録に残されることが少ない。

  例えば家族のアルバムをめくっても、旅行や行事の写真はあっても毎日の生

活風景の写真が極端に少ないことに気づくように。

  それと同じことが文献にも言えるのではないだろうか。

  その点、山科家の雑掌・大沢久守が書き記した「山科家礼記」の花に関する

一部分(1486〜1492)は、禁裏(小御所・御学問所・黒戸御所)に立てたとはい

え、日常的にいけられた百数十瓶の花の記録として貴重だ。

  応仁の乱によって経済的な苦境に陥っていた宮中は、唐物や掛け軸を失い

、床飾りもできず、これまでの室内装飾に替わるものとして荘園から調達できる

草花でなんとかやりくりしていた。

  久守の花は花器の代わりに飯筒や馬盥を使わざるを得なかったのだ。

  皮肉にもそのかわり花は貴族たちを慰める重要なアイテムとなる機会を持つ

ことができた。

 最後に「場」にいける論考で触れなくてはならないのは現代における野外造形

についてだろう。

 枕草子では花がまだ完全に家の内に入りきっておらず、供華をきっかけにし

て徐々に内側に侵入していくプロセスが華道史となることは前号で触れたが、

現在は逆に花が外に向かって新しい場を発見していく傾向にある。

  1950年代の前衛いけばな運動を通過してさまざまな異質素材や構築性に目

覚めた作家たちは、ついに自然の真っ只中にまでやってきてしまった。

 特に70年以降、流派を超えた若い作家たちが「いけばな公募展」を端緒にグル

ープを形成し、ユニークなイベントを企画実行していく中で外に出ていったこと

の意味は大きい。

 利賀村の79いけばなキャラバン、83新潟雪原イベント、89アジア現代いけばな

公募展など失敗と成功を繰り返しながら、彼らは現代いけばなの認知を迫って

いる。

 自然の素材を使ういけばなが本物の自然とどう向き合い、協調し、対決してい

くのか興味は尽きない。

 その時、いけばなは跡形もなく消え去ってしまうのか、あるいはかろうじていけ

ばなのアイデンティティを保ちつつ踏みとどまるのか、はたまた新しい自然との

関係を発見できるのか。結論はまだ遠い先のようだ。

  (了)

 

 

 

 

第1回   花を生ける「場」

 

  いま全国各地で草月創流80周年記念花展が華々しく繰り広げられている。

その多くは定番化してきているとはいえ、デパートで開催され、不特定多数の

観客動員を見込んでいる。

  最初にデパートという場に着目して花展を行ったのは小原雲心で、独自に考

案した盛花による展覧会を明治四十五年(1912)大阪・三越百貨店で開いてい

る。

 呉服の売り上げ増を目論んだ商業資本と組んだもので、それ以来デパートと

いけばなは婦女子客吸引の両輪として切っても切れない関係を保っている。

 もともといけばなは花をいけて人を歓ばす、あるいはもてなすということが根

本にあった。

 そこには目の前に親しい客や友人が具体的存在として見えていた。

 また式日に立てられる花はパトロンである将軍や宮廷の貴族たちのために、

象徴的・権威主義的デモンストレーションとして行われていた。

  いけばながまだ法式を持たない時代にも花と人間たちとの交流がいろいろな

場で試みられ楽しまれた。

 「枕草子」に次のような一節が出てくる。

  勾欄のもとにあをき瓶のおほきなるをすゑて、櫻のいみじうおもしろき枝の五

尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、勾欄の外まで咲きこぼれたる…

 勾欄のもとであるから、これは内でもなく外でもない微妙な空間ということにな

る。

 勾欄のもととは、いまでも古民家などに見られる縁側というファジーな空間に

も似ている。

  確かにその頃は限られた灯りしかなく、外光をたよりに観賞するしかなかった

のだろう。

 当時の寝殿造建築においては、御簾や几帳などで仕切られた空間は奥に行

くほど薄暗く、とても花をしっかり見るなどということはできにくかったに違いない。

 それでも建物の内側に花を置きたいという欲求は、供花という形となって寺院

の内部に入り込んでいった。

 特別な日には厳かに仏の尊崇を集めるために花が供えられた。

 長期間にわたる時には金銅で作った飾り物の供花も現れ、紙などで華やかに

作られた十種十二鉢の造花を飾る薬師寺の花会式などは今も行われている。

 大陸との交易が盛んに行われた室町時代になると、手に入れた珍重すべき

文物を見せ合う「花合」や「七夕法楽」が盛んに行われた。

  そのような儀式に合せ、たくさんの花が唐物の花瓶にいけられ楽しまれたが

、それはあくまでも中国から渡来した器物を自慢しあうサロンとしての要素が強

かった。

 これらの催しに欠く事のできない芸術家集団に、同朋衆と呼ばれる人たちが

いた。

 足利義政の東山時代には床の間をもつ書院建築という新しい様式が本格的

に広まり、その押し板スペースを相手に同朋衆たちは花の構成法や取り合わ

せなどをエ夫して「立花」というスタイルを作り上げ、ここにいけばなが誕生した

とされる。

 仏前装飾のスタイルである三具足の様式(正面に仏画を掛け、中心に香炉、

向かって右に燭台、左に花を置く)は、いつしか掛け軸も仏画から山水花鳥画

に変わり、純粋に美のための空間へとその要請が変遷していった。

 桃山時代になると床の間は大小二極化される。

 池坊初代専好による前田邸大広間上段にいけられた「砂の物」(前田邸御成

記・文禄三年1594年)はとりわけ印象深い。

 四幅対の猿の絵の掛け物が掛けられている四間床(7b強)に、横六尺(1・8

b)、縦三尺(90センチ)の鉢の器に大松の真を立て、その枝をなびかせたとこ

ろに猿20匹があたかも止まっているかのようにいけてみせたというものだ。

 これは安土城に象徴されるような雄大な空間を意識した大掛かりな見立ての

手法であるが、実はもっと以前にその手法を使ったとんでもない人物がいた。

 

 本堂ノ庭ニ十囲ノ花木四本アリ。此下ニ一丈余リノ鋳石ノ花瓶ヲ鋳懸テ、一隻

ノ華ニ作リ成シ、其交ニ両囲ノ香炉ヲ両机ニ並ベテ、一斤ノ名香ヲ一度ニ炊上タ

レバ、香風四方ニ散ジテ、人皆浮香世界ノ中ニ在ガ如シ。其陰ニ幡ヲ引曲ロク

ヲ立並テ、百昧ノ珍膳ヲ調へ百服ノ本非ヲ飲テ、懸物山ノ如ク積上タリ。                               

                                         「太平記」

  これは佐々木道誉という南北朝の婆娑羅大名が仕掛けた、野外での一大パ

フォーマンスの記述である。

 桜の巨木を見事に使いこなした快作で、人々を驚かせたのだ。

 初代専好は秀吉ただ一人のために壮大な花をいけ、道誉はライバルの鼻を

明かしたいがために常識外れの豪放ないけばなを演出した。

 きっかけはどうあれ、その「場」を大胆不敵に使いおおせた発想には舌を巻く。

  一方、このようなスケールの大きい花と対極的な位置にある、極小の床の間

にいけられた花としての、茶人たちの試みも忘れてはならないだろう。

 千利休による朝顔の茶事の話は、視点を「場」に絞って考えるとなかなか興味

深い。

 つまり、たくさん咲き誇っている朝顔の「場」をすべて削除することによってま

ず出鼻をくじく意外性を演出し、その中の一輪だけを違う「場」(茶室)に移し変

えることによって、その空間の緊張感を一気に高め、秀吉がにじり口を開ける

瞬間を待つのである。

 秀吉という人間を知り尽くした、利休の鋭い眼力がうかがえる。

 招かれたごく少人数の客をいかに心地良くもてなすか。

 茶室という舞台を借り、考え抜かれた趣向の中で、花は最もフレキシブルに対

応できる大きな仕掛けの一つであった。

  「場」を移し返す、もう一つのエピソードを紹介しよう。

 ある日、利休より花入を見せたいので茶事を行うとの案内があった。

客たちは、期待に胸膨らませやってきた。

  しかし、茶会の間その日のメインであるはずの花入れは全く出ず客たちは所

望してみようかどうだろうかと思案しながらも茶会は終わってしまった。

 路地に出ると、利休がやってきて、花入れは見ましたかと言う。

 客たちは、座敷路地等いろいろ見回したのですがついに見ることはできませ

んでした、と。

 そこで利休は塵穴を指差した。そこには落ちた椿の花が見事に入れてあった

という。

                                  「松屋会記」より

 また、こんなエピソードもある。

 

 秀吉公、春のころ利休宅へ御成りの節、一畳台目にて御茶上げられ侯に、天

井よりひるかぎして、花生をつり、糸櫻の咲きみだれたるを、座にみちみち、に

じり上り、中敷居とひとしく生られたり。公御座に入りあそばされ、御立ちもやら

で、にじりよらせ給い、席のかざりを御上覧あり、もうけの御座とて、枝ぶりのお

のずからすこしよぎりたるかたに御着座ましまし、御機嫌ななめならずなりしと

なり。 

                                       「源流茶話」

  今度は茶室自体を大きな花入としてしまっている。

 ここで忘れてならないのは、茶花の思想には「場」と関連して「時間」というキ

ーワードも含まれていることである。

 話を現代に戻すと、デパートでの花展やショーウインドウなどにいける花は、

ほんの二時間ほどの時を最高な状態で見せればよい茶花と違い、できるだけ

展示期間を長くしてほしいという要請がある。

 そのために植物だけでは対処できなくなり、自然の流れとして花以外のモノを

使わざるを得なくなってくる。

 しかしそこには、植物から離れていくことにより単なる造形志向に陥っていくリ

スクが考えられる。

 また観客が近しい人間から不特定多数の群集となったことで、癒しを求めてく

る人たちの期待に反し、会場は混乱と疲労の「場」となる危険性がある。

  「場」という問いかけは、必然的に「時間」や「観る者」といった要素を複合的

に巻き込みながら展開していかざるを得ない。

  床の間という住み慣れた空間から、いけばなは新しい場を求めて旅立ったが

、まだ安住の地は見つかっていない。

 いや、見つからないことが却ってさまざまな実験的試みを続けることにつなが

り、やがては新しい形を発見していくことになるのではないかとも思う。

  (了)

 ※時代区分については諸説があるので、「美術手帳」(東京美術倶楽部編)のものを参

考にした。    

 

 

(全3ページ) 前ページへ  1  2  3  次ページへ