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壁の向こう側 

 

壁の向こう側    

「実に何とも素晴らしい出来の家じゃありませんか。まずこの壁ですがね…おや、

もう皆さんお帰りですか?…どうです、この壁の頑丈なこと」

 そう言って私は、まったくの血迷った空威張りから、所もあろうに愛妻の死体を

塗りこめてある部分の煉瓦を、手にした杖で強く叩いたのだ。(中略)

 叩いた杖の反響が静寂に沈んだかと思うや否や、墓穴の中から答える声があ

ったのだ。

 はじめは子供のすすり泣きのように、押しころされたとぎれとぎれの泣き声であ

ったが、たちまちそれは実に異様な、人間とは思えぬ長く甲高い切れ目のない叫

び声と高まり、咆哮となった。

                          

         (E・A・ポー「黒猫」河野一郎訳)

 

 

 

 壁の中には物語が塗りこめられている。

 

 それが犯罪であるのか、過去の記憶であるのか、絶望の果ての希望であるの

かわからないがともかくもそこには何か秘密めいたものがありそうで、我々を冷

たく突き放しておきながら、壁の中へ、あるいはその向こうへと誘いこむ。

 壁は自然界と人間界を厳しく遮断する結界でもある。

 独房の壁に毎日対峠している囚人は、その向こうにある自由な世界の空気に

敏感になる。

 回復の見込みのない患者は小川のせせらぎや小鳥のさえずりを聴き逃すまいとして病室の壁を見続ける。

 内側からは窓を開けることで外界とつながりを持てそうだが、切り取られた窓は

あまりに平面的で限界がある。

 壁構造が主流の西欧に対して、日本の建築は柱や梁によって構成されていた

ふすまや障子を取り去れば、光、風、匂い、音などを全身で受けとめることができ

た。

 そんな中で茶室だけが土壁に囲繞された空間ではあったが、ザラザラの土の

粒子は光を吸いこみ、柔らかな質感をきわだたせた。

 それは常に向こう側にある自然そのもの、大地の匂いを含んでいるものであっ

た。

 中川幸夫は床の間の土壁に柄杓で水を撒き散らした(「ばけるほのお展」198

8年9月4日 萩市三輪休雪邸)。

 私は実際に立ち合ったわけではないが、数秒間の気迫に満ちたパフォーマンス

を想像するに難くない。

 土壁はたっぷりと水を吸いリフレッシュされ、新たな相貌を見せたことだろう。

 現代の日本ではこのようなぜいたくな空間は消え去りつつあり、ふすまや障子

でさえ本来の意味を失い始めている。

 その代りにハードで無機質な壁が我々の行く手にいつも立ちふさがっている。

 西洋の中世都市は城壁をはりめぐらせることによって都市のアイデンティティー

を打ちたてようとしたが、現代の都市は迷路のように入り組んだ見える壁や見え

ない壁によってアイデンティティーを消失していると言えるのではないか。

 

 植物の壁

 

 流の内外を問わず草月展の壁は画期的な試みとして大きな反響を呼んだ。

 延々と続く壁作品は異様なエネルギーを発散し、観客を庄倒していた。

 だが、見ていくうちに、“何かおかしい。何かこれでは違うんじゃないか”という想

いが私の中にわきだした。

 作品サイズが定められていたこれまでの慣習的な展示方法から一歩踏み出そ

うとして、この試みが出てきたわけだが、皮肉にも各作品は前以上に○○センチ

×○○センチという規格に囲い込まれてしまい、しかも作品どうしがピッタリと密

着し、むなしい自己主張を繰り返している。

 単なる平面が立ち上ったというだけのことで、壁の持つ意味性とか、向こう側に

あるものに対しての予感や広がりが感じられない。

 1メートルの幅の中で最大限に自分の壁を植物で飾りたて、“花は生けたら人

になるのだ”という『勅使河原蒼風花伝書』の短絡したとらえ方をしている作品が

多い。

 壁はもう少し謙虚なものだ。

 虚しくして何かを待っているものだ。

 それは少年たちの落書きかもしれない。

 風に揺れる樹々の影をひたすら映すことであるかもしれない。

 己がゼロに近くなることによって壁は壁でありえたし、そうすることによって無限

大の存在感となって立ちふさがるものである。

 植物の壁というからには石やコンクリートのかたくなに拒否し続ける壁でもなく、

ふすまや障子のような開放感を伴うものでもない、その中間に位置するような壁

となるだろうか。

 土壁はそれに近いニュアンスだ。

 壁の向こう側にあるべき自然が壁そのものになってしまったという転倒した世界

の面白さ。

 それは新しい壁の出現を期待させる。

 モノトーンの何種類かの麻布で、誘い込むようなミステリアスな壁を作った竹中

麗湖、木材をぶっきらぼうに割って墨を塗った本間草園、壁というより障子に近

いが、和紙に塗り込められた雑草が軽やかなリズム感を出していた堀京草など

注目に価する作品も何点か見られた。

 しかし、ある作家が「今度の花展での私の壁作品は全体の中に埋没してしまう

だろう」といみじくも予言したように、私の眼前にはお互いがお互いを殺し合うサ

バイバルゲーム、勝者のいないサバイバルゲームが果てしなく展開されていた。

 その混乱とやり場のないエネルギーは他流の作家をして「これはいけばなの文

化大革命じゃないか」と言わしめたのもうなずける。

 革命には方向の定まらないカオスがつきものだ。

 その是非を言うのはやさしい。

 なぜこのような試みが起こってきたのかという背景をとらえ返さなければ印象批

評と言われても仕方ない。

 沈滞したいけばな界にゆさぶりをかけるには挑戦的な試行錯誤と毒が必要だ。

 この壁戦略はその文脈から考えれば、傷だらけになりながらも確かな戦果をあ

げたと言えるかもしれない。

 つまり、流展という流の威信を賭けた展覧会の中で、これだけのことをやっての

けたということは正当に評価されるべきだと思う。  

 

 いけばな界の壁

 それぞれの流派の花展は年に一度のお祭り的な流のデモンストレーションであ

るという性格上、作家の年功や実力などによるランキングといったような、一定の

ルールがある。

 また、諸流の集まりのいけ花芸術展、いけばなTODAYなどは各流の間の力関

係によって物事が処理され、会場構成も無難なものになってしまう傾向となる。

 それらに物足りなさを覚える作家たちはすすんで個展を催し自らの力を試して

いる。

 さらにいけばな公募展や全国各地で単発的に企画されているいけばなイベント

、超流派のグループ展、現代美術家とのジョイント展なども活躍の場となっている

 いけばな公募展はテーマや会場構成にこる流展と違い、“平等性”が展示空間

に求められているため、場が画一的になってしまうという問題を残しているが、昨

年は飛躍的な出品点数の増加や作品のレベルアップで、これからますます期待

の持てるものになってきた。

 千羽理芳や大吉昌山など実力作家が、かけ出しの若者と肩を並べてリングに

上っていることも心強い支えとなっている。

 このことは特筆していい。

各流内では実験的な作品や意欲的な作家に少しでも門扉を広げようと、小原流

ではマイイケバナ展(1979〜 )、草月流では創造の空間展(1982〜 隔年)、

龍生派では現代いけばな新人展(1986〜 )といった前向きの花展を開催して

いる。

 これらの発表の場に対して作者の制作態度が微妙に使い分けられていること

もすでに常識となっている。

 つまりメジャーな流れとして、社中展−流展−諸流合同展、マイナーな流れとし

て個展−公募展−野外イベントに大別され、それらは流展にふさわしい花、公募

展にふさわしい花といったように手加減されているのではないかと思う。

 さらに憂慮することは、この二つがクロスオーバーせず、メジャーの流れの中に

安住しているいけばな人、いけばな公募展など知ろうとしない人たちがあまりに

多いということだ。

 そうしたことは利口な保身術かもしれないが、本当に大切なことは、メジャーな

花展にアンチテーゼ的な大胆な作品を突きつけるということ、二つの流れの中で

絶えず緊張感のある制作を続けるということではないだろうか。

それがいけばなの新しい局面を用意することになる。

 インサイダーであり続けることに少しの疑問も持たない人たちは悲しいし、いけ

ばな公募展や個展というサンクチュアリの中の自分だけのいけばなというのもあ

まりに悲しい。

 いけばな界の見えない壁を貫き、あるいは乗り越えて、自由自在に往還してい

く力を持ちたいものだ。

 しかし、このような二面性はいけばなの宿命とも言える。

私はよく自分をも含めていけばな作家のことを自嘲気味に“花人二重面相”と言

っている。

 組織と個人、作家と師範、古典華と現代花、評論家と作家などのはざまにいつ

も両足をかけているからだ。

 特に作家と師範という問題は深刻で、これは“作家と家元”のケースにまで行き

着き、上から下まで深浅はあるものの古くて新しい問題である。

 家元制度を否定して作家としての立場を貫き通している中川幸夫は立派だが、

第二、第三の中川幸夫が輩出しなかったのはなぜだろうかとも思う。

 少し脱線したようだ。

 現在、作家の発表する場についてざっとこのような状況が見渡せるのだが、草

月展の壁はそんなもどかしさの中から出てきたひとつの実験であり、タイムリーな

プロデュースであった。

 壁作品に対する予想以上の出品希望があったということはそれを証明している

 壁は家元・勅使河原宏の現代空間を見抜く鋭い感性によって提起された。

 これは草月流にとって幸せなことであるのだろう。

 だが、組織の項点に立つ家元が、いつもいつも旗を振らなければ物事が円滑

に動き出していかないという現実はどうしたものだろうか。

 文化大革命という言われ方はここからもきている。

 アプリオリ(前もって決められたもの)に壁というものがあるのではなく、作家とし

て本当に壁がやりたいのかどうかといったところから出発すべきではなかったか

 そこを押えていればもう少し充実した壁や壁の意味を塗り替えるような新しい壁

も出現したかもしれない。

 もし壁を否定するのならそれに代わる刺激的な作品を見せて欲しいし、家元も

それを待っていると思うのだが…。

 ただ、テーマや会場構成を刷新しようとするあまり、一人一人の作家の自主性

や創造性が窒息させられてしまいかねないということには充分な配慮が望まれる

 さて、今回の勅使河原宏の大作はたぶんに「桃山」を意識したものとなった。

 三方をパーティション(部屋のしきり)で囲まれた空間に、つるうめもどき、苔梅、

苔松、オンシジウム、しだれ柳などを豪華に生けている。

 奇異に感じたのは空間に対して作品が度外れて大きく作られており、枝がほと

んど仕切りに接していたことだ。

それによってこの作品は壁作品以上に壁を感じさせた。

 これは私の深読みであろう。

 

見えない壁

 深読みと言えば、大坪光泉の作品と向き合うたびに、私は暗号を解読するよう

なスリリングな気持にさせられる。

 そしてその後には批評回路がショートして断たれてしまったような不思議な時間

が訪れる。

 たとえばいけばな公募展に出品された工具箱(1988年12月11日〜12日 

都立産業貿易センター台東館)。

 どこにでもある両開きのブルーのその箱の中には、ホチキス針を留められた木

片とか、削りかけの小枝などが、花バサミなどと共にぎっしりと詰まっている。

 大坪流マジック箱の公開といったところか。

 他の作品は多かれ少なかれ“いけばな”と格闘しているなと思わせたのだが、こ

れはそんな痕跡など微塵も感じさせず、しかも確実に“いけばな”を語っている。

 花の磁場展(1988年10月13日〜18日 上野松坂屋)いけばなTODAY(19

88年10月28日〜11月9日 西武アートフォーラム)ではサツマイモの巨大なア

ーチを制作した。

 土俗的でエロティックで力強い。

 壁と正反対にこの門はすべての者を容易に通過させるが、なぜかくぐるのをし

りごみしたくなるような“磁場”が生まれている。

 この毒に満ちた欲望の門はそれゆえ壁そのものと言える。

 コンテンポラリーいけばな展(1989年3月〜25日 ギャラリーKOYANAGI)で

は自分の葬式をやってしまった。

 花と一緒に浴槽につかっている[浴槽=棺桶]氏自身の写真が古い仏壇に飾ら

れている。

 男女の一対のようなサツマイモ、ネパールの宗教的な仮面、ハクサイ、ホウレ

ンソウ、花びら、ジュンサイのビン詰めなどが置き並べられ、傍には花瓶にレン

ギョウと杉がわざと下手クソに生けてある。

 何という明るさ、傍若無人さ。

 あの“植物人間”の大坪光泉健在なりである。

 “次代を担う男性作家”十一人の作品写真集の出版記念の花展、それもオープ

ニングパーティーの日にあえて葬式である。

 彼のニールヴァーナ(寂滅)志向は今に始まったことではない。

 彼の作品だけ画廊の外にしつらえてあり、焼香する時はアルミサッシのガラス

扉を開閉する。

 ガラス扉は一種の壁であり、生と死のはざまに直立している。

 我々が見えても見えないふりをする、最後にぶち当らなければならない壁だ。

 同時期に開催された原生花艶展(1989年3月16日〜21日 日本橋高島屋)

はキョウナでボディを作り、上から色々な花びらをまき散らした巨大な物体を出現

させた。

 いけばな的なものから全速力で遠ざかりたいと言う大坪の、これは途方もない

逸脱ではある。

 男女が合体したところを造形化したヒンズー教独特の形らしいが、その中で彼

のエロス(生)とタナトス(死)がせめぎ合っている。

 コンテンポラリーいけばな展で渡辺雲泉はそのエロスをより生々しく提出した。

 パンティーストッキングの中に花や小枝を入れ、それを何枚も重ね立体化した。

 それを台座の上に両足を開いた格好でセッティングし、エンコウ杉を一部分に

のせたのである。

 見せながら隠し、隠しながら見せるという挑発性が面白い。

 大半が女性たちで占められるいけばな界にあって、従来セックスのテーマはタ

ブーになっていたが、あえてこの禁忌をおかした勇気は評価したい。

 花の磁場展では花ぼんでん、いけばなTODAYでは割った木を積み上げた立像

、いけばな公募展では木片を床板にそって置くなど堅実でおとなしいものが多か

っただけに、この変貌ぶりには驚いた。

 このような奇手を今度は流展で見せて欲しいとも思う。

 コンテンポラリー展には他にも小原夏樹、粕谷明弘、仮屋崎省吾、小泉道生、

長井理一、早川研一、日向洋一、肥原俊樹、松田隆作といった錚錚たる顔ぶれ

が集められていて、作品もそれぞれに楽しめた。

 日向洋一の浮遊する線はある種の解放感を与える。

 ヨシの曲線をつなぎ合せ、そこに黒、黄、赤、オレンジの紙を部分部分に貼りつ

けた作品はバックの白壁から浮き上がり、一見気ままな、しかしよく計算された動

きを描いている。

 紙を木ワクに貼る凧的な手法は現代美術にも前例があり、決して新しいとは言

えないが、ヨシの線と紙の関係、さらに背後の壁とのかね合いが、いけばな作家

ならではの“手”を感じさせる。

 日向は一貫して線の作家であり、その優美な線描は独壇場と言っていい。

 昨年の焼いた雑木と石で構成した一連の作品にしてもそれはあてはまり、空気

の壁に微妙なふるえを起こし続けていた。

 最近の彼のいけばなにはもうひとつボリュームというものが加わってきた。四葉

会3(日向の他、寺田真由美、福島光加、州村円芳)におけるワラの山積み、公

募展の牧草、神奈川草月展の花木などがそれにあたる。

 まだ試行の段階と言えるが、線の造形を自家薬龍中の物にした氏が作り出す

マッスは、単なるマッス表現にはならないだろう。

 松田隆作の作品は同展中白眉のものであった。

 切り取った五本のしだれ柳の太い枝を天井と壁の間にセットし、そこから分枝し

た細く長い柳の線を床にまでたっぷりたらしている。

 それらは六枚の白い陶皿に受けられていて、5個の石で止めてある。

 陶皿には多くもなく少なくもない水が入れてあり、その上に白い花びらを浮かべ

ている。

 彼の作品を言葉で書くとわずらわしいぐらい手のこんだものに思えるが、見た

時の印象はシンプルですがすがしい。

 柳の線によって空間が実に柔らかく分節化された。

 石と木と水と花と土(陶)が絶妙な配分で位置を占め、画廊の大きなガラス戸か

ら射しこんでくる光がそれをより一層効果的に演出している。

 造形という“壁”を乗り越えてしまったような非造形の世界、いのちの“関係”を

提示することによる新しいいけばなの世界をかいま見させてくれた。

 樹のいのちを見つめる吉村華泉の仕事はいつも深い手ごたえを感じる。

 原生花艶展での曲りくねったかしわの樹を低く組み合せた“方形の集積”は氏

が行き着いた一番新しい境地である。

 これは鉄鎖によって直方体にしばりつけられた樹の作品の次の展開として出て

きたもので、鎖を解き放たれた樹々がのびやかに動き始めた。

しかしまだ方形というフレームの中に囲い込まれているため、中心から外部へ向

かってうごめいていこうとする力の、はりつめた一瞬が定着された。

 さながらこれは樹海の妖しさ、暗さを幻想させ、波のように押し寄せてきそうな

錯覚をいだかせる。

 一見、自然に放り出されただけのかしわと見えるが、透明の“壁”を設定するこ

とで、ガジュマルの持つ根源的な力を増幅することに成功している。

 

終章 自然へ

 全面が雑木と土におおわれた洞窟のような部屋の中にモニターテレビが十数

台、ところどころに設置してある。

 そのほの白い画面からは寄せては返す波、風にそよぐ竹林、とうとうと流れ落

ちる滝などのバック・グラウンド・ビデオ(BGV)が静かに放送されている(環境ビ

デオの世界展1989年3月〜30日 電通プロモーションギャラリー 空間構成 

仮屋崎省吾)。

 都会の喧騒を逃がれ、ひとときの精神の休息を求めにきた若者やサラリーマン

たちが、ただ押し黙ってモニターを見続けている。

 テレビ受像機の光を受けて、見つめる人たちの眼は何か放心したようでうつろ

に見える。

 洞窟の壁にうがたれた窓から、美しく加工された疑似自然が流れているという

ことの不自然さに気づいているのだろうか。

 周囲の土や木もホンモノとは言い難い。

 それらは大地から切り取られてきた根無し植物だし、すでに疑似自然の側にま

わっている。

 BGVを見続けていると、麻薬のようなこころよい毒がまわって、スイッチを切れ

なくなりそうだ。

 この会場のすべてのモニターテレビを消した時の暗い絶望感を想像してみるが

いい。

 これほどまでに人間と自然は離ればなれになってしまったのだろうか。

 人間と自然の間に無数の壁が存在し、ひとつの壁を壊してもまた次の壁が立ち

現われてきて、我々の進路をふさぐ。

 伸ばしかけた手は虚空をつかみ、その向こうにある壁の硬さにたじろぐ。

 窓と思っていたモニターテレビも実は壁に他ならない。

 この悲しい現実認識から逃れることはできない。

 そう、ここで踊るしかないのだ。

 BGVもそこに立ち止まってずっと見ていれば、我々の想像力によっておぎなわ

れ、ふくらんだ、もうひとつの本質的な自然が見えてきそうだ。

 それには少し時間がかかる。

 メディテーション (瞑想)の時間。

 我々を我々の自然にまで帰してくれる濃密な気がたちこめてくるのを待つ時間

が必要だ。

 切りとられた土や木やBGVはそこに到るまでの装置であって、水を注いで体中

にうるおいを与えていくシャワーのような機能を果す。

 ニセモノをホンモノに転化する魔力は自分自身の中にあったのだ。

 虚構と知りつつも、植物たちによる世界の構築は、互いに背を向け合ってしま

った人間と自然とのデタント(緊張緩和)をはかるためにも意味がある。

 これからも現代いけばなにおいて幾多のトライアル・アンド・エラーが繰り返され

、毀誉褒貶を受けるだろう。

 だが我々は生物である限り、自然の持つ速度の中で植物たちと歩いていかね

ばならない。

 壁の向こう側にあるものとは、自然という私である。

 

                     (了)